【田畑一也 千載一遇~「野村再生工場の最高傑作」と呼ばれた男~(23)】ヤクルト移籍1年目の1996年、4月に3年ぶりの先発を白星で飾ってから2か月後に、僕は投手として最大の窮地に立たされました。6月12日の中日戦前にナゴヤ球場の三塁ベンチ内で、バナナを手にしたまま野村克也監督から勧められたサイドスロー転向。それが事実上の最後通告を意味することは理解できても、簡単に首を縦に振るわけにはいきませんでした。
腹も立ちました。もちろん野村監督にではなくて、何度もチャンスをもらいながら満足な結果を残せなかった自分に対してです。この日は中継ぎ待機でベンチ入りしていて、登板に備えてブルペンへ向かうと投手コーチの小谷正勝さんにも「サイドの練習をしろ!」と言われました。
それでも僕はガン無視を決め込みました。ナゴヤ球場のブルペンは神宮球場のように一、三塁側のファウルグラウンドにあり、スタンドからもベンチからも丸見えなんですが、従来通りの投球フォームで肩をつくり、7―6の7回一死一塁から吉井理人さんに代わる2番手として登板しても上から投げました。結果は6月半ばながら3割8分台の高打率を誇っていた4番パウエルと、続く音重鎮さんを連続三振。僕はこれでもかというほど鼻の穴を膨らませ、過去にないほどのドヤ顔でベンチに戻りました。
するとほどなく、野村監督が僕の近くへとやってきました。「なんで横から投げんかったんや」と文句でも言われるのかと思ったら、強い口調でこう諭されたのです。
「お前に足りなかったのは、今日みたいな打者に向かっていく気持ちや。忘れるなよ」
このひと言は、脳天にカミナリでも落ちたような衝撃でした。分かっていたつもりでも忘れていた初心――。この件が、直前に見せつけられたサイドスロー転向の成功例である広島・山崎健の好投をキッカケにした思いつきだったのか、考えに考えた末の苦肉の策だったのか、はたまた僕の闘志に火をつけるためのものだったのか、真相は分かりません。しかし、この気づきがなかったら、その先の僕の活躍はなかったでしょう。
そして何より良かったのは“鉄は熱いうちに”とばかりに、サイドスロー転向騒動から中2日で横浜戦(神宮)に先発させてもらえたことです。斎藤隆との投げ合いを制して8回途中1失点で4勝目を挙げると、札幌の円山球場で行われた同22日の中日戦では山本昌さんに投げ勝ち、プロ初完投を1安打完封勝利で飾ることができました。
翌朝、札幌市内の宿舎でスポーツ紙に目を通していると、野村監督のこんな談話が載っていました。
「田畑サマサマだよ。いつ打たれるかと思ったけど面食らった」
6月28日の阪神戦(神宮)でも8回途中1失点で勝ち投手となり、3連勝と調子を上げてきた僕は、野村監督から親孝行の機会まで与えてもらうことになりました。












