【田畑一也 千載一遇~「野村再生工場の最高傑作」と呼ばれた男~(25)】11年間に及んだ現役生活の中で、僕は幸いにも2度も球宴に出場させていただました。いずれも監督推薦で、選んでくださったのはヤクルト移籍1年目の1996年が野村克也監督で、翌97年は巨人の長嶋茂雄監督。舞台となったのは3試合制の96年が第1戦から福岡ドーム、東京ドーム、富山アルペンスタジアム、97年は大阪ドームと神宮球場でした。

 富山出身でダイエー、ヤクルト、近鉄、巨人と4球団を渡り歩いた僕にとって、開催地はいずれも縁のある、もしくは後に移籍してお世話になった球場ばかり。わずか2度の出場にして、こういう形で“コンプリート”した選手も珍しいのではないでしょうか。

 イチローを登板させるのは是か非かでパ・リーグを率いるオリックスの仰木彬監督と全セの野村監督がメディアを通じて激論を交わし、開催前から注目された96年の球宴では、第1戦に古巣福岡ドームで3―3の7回に3番手で登板して打者4人を相手に1回無失点。感慨深いものがありました。しかし、最も思い出深い試合となれば、やはり地元富山で投げた同年の第3戦です。

 出場選手ですらチケットが入手困難な中で両親や親戚ら約30人が駆け付け、ファウルグラウンドの脇にあるブルペンに姿を現しただけで身内以外の地元ファンも大盛り上がり。3―2の4回から3番手で登板すると球場全体から「田畑コール」が湧き起こり、スタンドではウエーブが繰り広げられました。

 あれほどのどよめきは経験したことがなく、ましてやご当地。手を振られても振り返す精神的な余裕もなく、うれしさよりも「打たれたらどうしよう」という怖さや、変な緊張感のほうが大きかったように思います。野村監督にも「それにしても富山県民の地元意識はすごいなあ。これなら将来は県会議員にでも市長にでもなれるやろ」と、からかわれました。

 マウンドでは落ち着きを取り戻し、初芝清さんと堀幸一のロッテ勢から二死を奪い、次打者は日本ハムの田中幸雄さん。そこでネクストバッターズサークルを見ると、入団テストでも僕のボールを受けてくれたダイエーの吉永幸一郎が立っていました。「申し訳ない」と思いながらも幸雄さんを四球で歩かせ、吉永と勝負。三邪飛に抑え、無失点でマウンドを降りたときの声援も忘れられません。

 翌97年の球宴では、イチローの連続無三振を216打席で止めて話題を呼んだ日本ハムの下柳剛も選出されました。いろいろあってダイエーから新天地へと旅立った僕とシモ、城島健司の台頭で活躍の場を一塁やDHに変えて全パの4番に座った吉永。既に若手から中堅と呼ばれる年頃になっていた同世代の仲間たちとの夢舞台での再会は、僕にとって誇らしい勲章のようなものでした。