【田畑一也 千載一遇~「野村再生工場の最高傑作」と呼ばれた男~(27)】日本球界を代表する捕手で、2015年に野球殿堂入りまで果たされた古田敦也さんについて、いまさら事細かに経歴を振り返る必要はないでしょう。その功績や通算成績をなぞるだけで紙面が尽きてしまいますし、皆さんもよくご存じのことと思います。今回は僕が知っている古田さんのことを、少しだけ書かせていただきます。

 僕がバッテリーを組ませてもらうようになった1996年は、古田さんにとって“受難の年”でもありました。そもそもこの年は川崎憲次郎や石井一久といった主力投手が軒並み故障や手術明けで、長年にわたって打線の中軸を担ってきた池山隆寛さんもアキレス腱痛に悩まされるなど誤算だらけ。攻守で古田さんにかかる負担は大きく、故障による出場選手登録の抹消以外でも、スタメンから外れることがしばしばありました。

 それでも古田さんは、古田さんです。同じユニホームを着て戦ったのは96年から99年の4年間ですが、何度となく「さすがだなあ」と感心させられました。特にすごさを感じたのは試合、勝負に対して「負けたくない」という気持ちが誰よりも強いこと。大学、社会人出身で初の通算2000安打達成をはじめとした数々の記録や金字塔も、原点にあったのは負けん気の強さだったのではないでしょうか。

 野球に対して誰よりも厳しい姿勢で臨んでいる一方で、構えたところに投げて打たれた時などは「すまんかったな」と謝ってくれるような柔軟な一面もありました。僕は移籍1年目の96年に“若気の至り”で古田さんのサインに何度か首を振ったこともありましたが、そんな時ほど決まって打たれてしまう。プロ初完投を1安打完封で飾った6月22日の中日戦もそうでした。

 唯一の安打は5回二死走者なしから中村武志さんに許したのですが、カウント1―1からのフォークのサインに「ボールを先行させたくない」との思いから首を振り、チェンジアップを投げて結果的に大記録を逃すことになりました。

 7月4日の巨人戦で投手のガルベスに「生まれて初めて」という本塁打を食らった時もそう。古田さんのサインはストレートでしたが、自分の意思で初球にスライダーを投げたらジャストミートされて神宮球場の左翼席最上段まで運ばれてしまいました。

 こうなったら怖くて古田さんのサインに首は振れません。というか、巨人戦の連敗を10で止め、僕が4―1の8回途中から投げてプロ初セーブを挙げた8月24日の試合では、古田さんのリードに従って投げただけなのに「ありがとうな」と感謝までされました。あまりに巨人に負けてばかりでファンが鳴り物による応援をボイコットする異様な雰囲気の中、古田さんも何とか勝ちたいという一心だったのでしょう。

 野村監督の下では、僕ら選手がメディアの前でボヤキの対象になることはあっても、直接厳しいことを言われるケースはほとんどありません。例外はグラウンド上の監督である古田さんで、抱えるストレスが誰よりも多かったことは容易に想像できます。僕のような投手がのびのびと野球をできたのはグラウンド内外で古田さんが守ってくれたから。もう感謝しかありません。