今年で43回目を迎えた全日本プロレス、春の祭典「チャンピオン・カーニバル」優勝決定戦(7日)は、芦野祥太郎がT―Hawkを下し、殊勲の初優勝を飾った。しかし10日には左尺骨骨折のため、29日後楽園大会で予定されていた3冠ヘビー級王者・永田裕志への挑戦を欠場すると発表した。残念だがこの屈辱をバネにケガを完治させて、万全の体調で王座に挑んでほしい。

 芦野のような新星の優勝を含め、長いカーニバルの歴史では大波乱が多く起きたが、特筆すべき最初で最大の“事件”は1976年の第4回大会で“黒い呪術師”ことアブドーラ・ザ・ブッチャーが、73年の第1回から3連覇中のジャイアント馬場を撃破。馬場以外の選手では初めて優勝を決めたことだろう。外国人選手の優勝も初だった。

 この年から14選手総当たりの1リーグ戦が採用され大混戦の末、勝ち点18で並んだ馬場とブッチャーが優勝決定戦を行った。76年5月8日札幌の優勝戦の模様を本紙は1面で報じている。

『大混戦の中で“黒い呪術師”アブドーラ・ザ・ブッチャーが、第4回チャンピオン・カーニバル優勝をさらった。4月2日の開幕以来、総当たりリーグ戦で激しい星の潰し合いが展開されたカーニバルは最後の最後までもつれて優勝の行方は混とん。8日、札幌・中島体育センターで優勝戦が行われたが、まずバディ・ウォルフを下したブッチャーが18点で単独トップに立ち、続いて16点同士のジャンボ鶴田と大木金太郎が初対決。ともに硬くなって30分フルタイムドロー。17点ずつで脱落した。ここで4連覇を狙うジャイアント馬場が登場。怪覆面ザ・バラクーダを一蹴し、18点でブッチャーと同点となった。この結果、ただちに時間無制限1本勝負で馬場とブッチャーが優勝決定戦を行った。ブッチャーはスタートから奇襲をかけて大荒れ。額を叩き割られて大流血した馬場は一方的に押しまくられた。しかしブッチャーのエルボードロップ失敗でチャンスをつかんだ馬場は一気に反撃。ブッチャーを血だるまにして大暴れ。ピンフォールに持ち込んで九分九厘勝利をモノにしたが、乱闘に巻き込まれたジョー樋口主審がカウント不能で失敗。怒りを爆発させた馬場は、エプロンに大の字になったブッチャーをメッタ打ちの大暴走。副審ジェリー・マードックによって反則負けが宣告された。この瞬間、馬場のV4は消えてブッチャーの手が挙げられた』(抜粋)。

 ブッチャーは「生まれてからこんなにうれしいことはない…」と感極まった。60年代にはボボ・ブラジルという大物の先駆者がいたが、黒人選手が日本のリーグ戦を制した前例はなく、ある意味“大事件”だった。和田京平名誉レフェリーは後日、こう語っている。「黒人選手としてのプライドを持ったプロ中のプロだった。米国では幼少時から差別の対象になっていたから慣れていただろうけど、毅然としたプライドを持っていた。絶対に白人と同じ控室には入らない。全日本の選手には差別意識なんてなかったけど、ブッチャー自らがキレイに一線を引いて徹していた。当時、黒人選手がカーニバルを制するなんてあり得なかったんですよ。だから本当によろこんでいたね」

 トロフィーを子供のようにリング上で抱きしめる姿は有名だが、控室で誰もいなくなった後に「ミスター・ババには本当に感謝している…」と涙目でトロフィーを抱き寄せたという。

 その栄光と感激がよほど心に深く刻まれたのか、一時的な他団体移籍を除くと、最後まで全日本マットを主戦場として貫き、引退式も行った。日本マット界の常識を覆した一戦の裏には、そんな人間ドラマも隠されていた。(敬称略)