全日本プロレス、春の祭典「チャンピオン・カーニバル」は4月8日、後楽園ホールで開幕する。今年も激戦の数々が期待されるが、原型は日本プロレスの祖・力道山が創始した「ワールド大リーグ戦」だった。

 くしくも今年は1963年12月15日に不慮の死を遂げた力道山の没後60年となる。第1回大会は59年。当時はプロレス人気に陰りが出てきた時期で「世界中の強豪を集めて世界一を決める」という趣旨で開催されたリーグ戦は起死回生の打開策となり、プロレス人気を復興させ、日本中で連日会場を超満員にさせた。

 力道山は第1回から第5回まで無敵の5連覇を誇ったが、死去の約7か月前となる63年5月17日、東京体育館では“殺人狂”ことキラー・コワルスキーと決勝戦を行い、2―1で勝利。日本プロレス界でも不滅のリーグ戦5連覇を記録した。本紙は実に全50大会に及んだリーグ戦の詳細を連日1面で報じ、決勝戦の詳細も1面で大々的に報じている。

「東京・千駄ヶ谷の青い森は一万余の大観衆の歓声に震えた。第5回プロレス・ワールドリーグ戦の総決算となる決勝戦で力道山が5連覇の偉業を成し遂げたのだ。決勝戦メインイベントは時間無制限3本勝負。1本目は殺人狂のニースタンプ、殺人パンチの電撃作戦に力道山がダウン。しかし機をつかんで力道山が宝刀・空手チョップの乱打で逆襲。壮絶な水平打ち7連打の猛攻で5分1秒、先制のフォールを奪った。だが2本目は奇襲の足殺しにあって苦戦。凄まじいキックの嵐で場外に落とされると、殺人狂が本部机にこん身の力を込めたボディースラム。力道山は悶絶。7分30秒、カウント20が入ってもついに立てなかった。3本目、豊登の肩を借りてやっとリングに上がった力道山。殺人狂は再び足殺し作戦に出た。死に物狂いの力道山も空手チョップを放つが、足がいうことをきかない。殺人狂はニースタンプでダウンさせるとポール最上段から宙に舞いあがるトドメの必殺ニードロップ。だが力道山は寸前で一転。ヒザをマットに叩きつけて悶絶する殺人狂。力道山はその左足にかぶりつくように逆片エビ固め。5分50秒、Wリーグ5連覇の偉業はここになった」(抜粋)。

5連覇を達成した力道山。最後のトロフィー姿となった
5連覇を達成した力道山。最後のトロフィー姿となった

 試合前には大ハプニングが起きていた。初来日の“白覆面の魔王”ザ・デストロイヤーがスーツ姿でリングに上がってあいさつ。力道山の握手を拒否すると、握手を求めてきたコワルスキーに平手を叩き込んだのだ。

 5連覇の余韻に浸る間もなく、わずか1週間後の5月24日の東京体育館では力道山が魔王のWWA世界ヘビー級王座に挑戦。足4の字固めをかけ合ったままレフェリーストップとなった伝説の大死闘で、平均視聴率64%(ビデオリサーチ調べ)という驚異的な数字を記録した。

 5連覇からの力道山はまるで生き急ぐかのように激動の7か月を疾走した。6月5日には田中敬子さんと披露宴を行い約1か月の世界一周新婚旅行へ。8月、9月、11月、12月と豊登とのコンビでアジアタッグ王座を防衛し、11月5日にはキラー・オースチンを退けインターナショナルヘビー級王座を防衛した。

 そして12月2日(東京)、12月4日(大阪)では魔王を挑戦者に迎え、インターナショナル王座連続防衛戦に臨み、東京は2―1で力道山、大阪は両者リングアウトと王者が19、20回目の防衛に成功。魔王との最後の一戦から4日後の12月8日には暴漢に刺され、12月15日に帰らぬ人となった。あまりに激しすぎる最期だったが、Wリーグ5連覇と魔王との名勝負は、力道山最後の輝きでもあった。
 (敬称略)