【プロレス蔵出し写真館】今から40年前の1983年(昭和58年)3月2日、山形県民体育館でアジアタッグ選手権が行われ、王者チームのマイティ井上&阿修羅原組が、〝極道コンビ〟グレート小鹿&大熊元司組の挑戦を退け初防衛に成功した。

 アジアタッグは力道山やジャイアント馬場、アントニオ猪木も巻いたことのある日本プロレスから続く最古のベルト。若手レスラーにとっては、王座奪取がステップアップする〝第一関門〟ともいえる由緒あるベルトだ。

 写真は、アジアタッグのベルトが王者チームの控室に運ばれて来たとき、その場にいた、まだ〝デンジャラスK〟になる前、デビュー2年目の川田利明に持たせ撮影したひとコマ。うれしそうにポーズをとる川田に、三沢光晴も笑みがこぼれた。

 この日の川田は、第1試合で百田光雄と対戦し、7分弱で敗戦。一方の三沢は第2試合に登場。百田義浩とタッグを組み、菅原伸義(後のアポロ菅原)&後藤政二(後のターザン後藤)組と対戦し、15分時間切れ引き分けの熱戦を展開した。この頃の全日本プロレスは、新日本プロレスに負けず劣らず前座戦線が充実していた。

馬場に入門を直訴した川田はG小鹿の筋肉チェックを受けた(82年2月、東京体育館)
馬場に入門を直訴した川田はG小鹿の筋肉チェックを受けた(82年2月、東京体育館)

 川田は足利工業大学附属高校の1年先輩・三沢に誘われ全日本への入門を決意。82年2月4日、ジャイアント馬場がPWFヘビー級王座をかけてスタン・ハンセンと初対決する東京体育館に出向き、馬場と面会した。入門を許可された川田は、早々とその年の7月5日、福島・会津若松大会でバトルロイヤルに出場。佐藤昭雄ら先輩レスラーの指導を受けて10月4日、千葉・大原町消防署前グラウンド特設リングで冬木弘道(のちにサムソン冬木)を相手に待望のデビュー戦を行った(逆エビ固めで惜敗)。

デビュー前バトルロイヤルに出場した川田(82年7月、会津若松)
デビュー前バトルロイヤルに出場した川田(82年7月、会津若松)

 川田に転機が訪れたのは87年6月、天龍源一郎が阿修羅と決起し天龍革命を起こしてから。川田と冬木は後から加わり、天龍&阿修羅原の「龍原砲」とともに、川田&冬木の「フットルース」は「天龍同盟」で躍動した。

 さて、「世界最強タッグ決定リーグ戦」に出場する龍原砲の公開練習が行われた11月16日、世田谷区砧の全日プロ道場では、川田がサンドイッチ延髄をガードの上から何発か食らった。

 その後、天龍の「次なにやろうか?」の問いかけに、東スポは新たな合体技をリクエストして今までのように川田に〝実験台〟を頼むと、「オレ、嫌ですよ」とまさかの拒否。なんともいえない間ができると、すかさず天龍が「じゃ、試合やろうか?」。

 天龍はレフェリーに小川良成を指名して、急きょ龍原砲VSフットルースのタッグマッチが道場で始まった。時間にして10分から15分くらいだったか、〝ちゃんと〟タッチをして交代。会場でやる試合さながら、熱を帯びた戦いとなった。

 試合が終わると、天龍はサラリと「絵になった?」。この人はさりげなく、いつも格好いい。天龍の機転に心の中で感謝しつつ、実験台を拒否った川田には、〝いつまでも若手扱いするな〟という自己主張を感じたのを記憶している。

 そんな川田が初のチャンピオンベルトを巻いたのは翌88年3月9日の横浜大会。「今度王座を獲得出来なかったら天龍同盟から脱退する」と決死の覚悟で井上&石川敬士組にフットルースとして2度目の挑戦。川田がコーナー最上段から井上に回転エビ固めを決め3カウントを奪った。

 デビュー2年目に写真撮影のためベルトを持たされてから5年。見事に〝リアル〟アジアタッグ王者となった(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る