【武藤敬司の軌跡(24)】2000年1月4日の新日本プロレス・東京ドーム大会で行った蝶野正洋との一騎打ちを最後にnWoの時代は幕を閉じた。そして俺は、再び米国へ渡る。WCWの現場責任者だったエリック・ビショフに「助けてくれ」っていう感じで声をかけられたからだ。

東京ドームで蝶野と一騎打ち(00年1月4日)
東京ドームで蝶野と一騎打ち(00年1月4日)

 当時のWCWはWWFの勢いに押されていてね。すぐにでも行きたかったんだけど、新日本が出してくれなくて、現地に入るまでに3か月くらいかかったんだよ。そしたら、もうビショフは責任を取らされていなくてビンス・ルッソーっていうヤローが仕切っててさ。「何しに来たんだ」って感じなんだよ。たぶん、派閥とかあってビショフのことが嫌いだったんだろうな。そこにビショフに呼ばれた俺が来たから「なんでいる?」みたいな顔をされて。扱いは良くなかったよ。

 ただ、それが悪い話ばかりでもなくてね。その年の4月に長女が生まれたんだ。長男は4歳くらいでね。家族も6月くらいに現地に来て、セキュリティーのしっかりしたアパートを借りて、車もキャデラックを借りてさ。仕事をあまり与えてもらえなかった分、家族と一緒にいて練習もしっかりできて、結果的にいい休息期間だったんだよ。もちろん、契約をしているからギャランティーは毎月もらえたしね。

 とはいえ、そんな状況でもバンピーロとWCWタッグ王座のベルトをしっかり取ってるからな(ニヤリ)。それで秋ぐらいにアントニオ猪木さんから連絡があってロサンゼルスで会うことになった。そこに高田延彦さんもいて、猪木祭り(※)の話をされて日本に帰ることを決めたんだよ。

 そういえば、スキンヘッドにしたのもこのタイミングだった。米国でそったんだけど、理髪店が嫌がってやってくれなくてね。だから女房にそってもらったんだ。そしたら、見た息子が「何してるの?」って泣いてな…。「お前も悪いことしたらこういうふうになるぞ」って言ったらしばらくはいい子だったよ。

 髪が薄くなっていた? そうだよ。WCWでファンに「ムタ・ニード・ロゲイン」ってプラカードを掲げられちまってさ。ロゲインって養毛剤のことだからね(苦笑い)。当時の米国ではストーンコールド・スティーブ・オースティンやビル・ゴールドバーグとか、スキンヘッドの選手が主流だったから「じゃあ、合わせてそっちまうか」っていうのもあったね。

 まあ、学生時代とかは柔道の気合入れた大会で頭の毛をそられたりしていたから。ヤングライオンの時もそったし。変な話、親に感謝じゃないけど、絶壁でもないし。だからそこまでそることに抵抗はなかったよ。

※2000年12月31日に大阪ドーム(現京セラドーム)行われた「INOKI BOM―BA―YE」

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