【武藤敬司の軌跡(22)】1995年10月9日の新日本プロレスとUWFインターナショナルの全面対抗戦で高田延彦と激突したあたりから武藤敬司が台頭して、先を走っていたグレート・ムタに追いついたころ、それをうまいこと“両てんびん”でやったのが「nWoジャパン」(※)だった。
もともと「nWo」(New World Order)って96年にWCWで生まれて、それを97年2月に蝶野が日本に持ってきたんだ。当時の新日本はドーム興行が続いていて、会社側は、そういう大会のメインを「小川直也VS橋本真也」とかで行こうとしていたよね。上層部はそっちの方で頭がいっぱいだったな。だからっていうのもあって、地方の大会とか普段の試合のことは俺たちが任されていたんだよ。だから面白かった。
俺がnWoに入るだけでも、結構引っ張ったからな…。シャツを着たとか脱いだとかさ。握手したけど、それを返したりとかさ。で、97年の4月に握手をして、まずムタがnWoに入ったんだよ。余談だけど、これによって、それまでビッグマッチでしか見られなかったムタが地方大会にも行くようになったからさ。どこもフルハウスでお客の熱が「すごかった」って聞いたよ。
さらにその後、今度は武藤敬司がnWоに入るかどうかで引っ張ってな。最終的には9月に加わったんだよ。だけど、参加するだけで約5か月も引っ張ったんだから。すげえだろ(笑い)。
ただ、これこそ、俺が培ってきたアメリカンプロレスだからさ。最初にフロリダのテリトリーに行った85年はタンパを拠点にしてオーランド、マイアミ、ジャクソンビル、タラハシーと、決まっている会場を、毎回同じマッチメークで回るわけだ。その中で毎回工夫していかなかったらお客が付いてこないからな。それこそが俺のプロレスの原点だから。
あっちは悪玉と善玉がハッキリわかれている中でやるわけだよ。最初は俺がケンドール・ウインダムにやられたらマネジャーが助けに来て消化不良で終わる。だったら次はマネジャーを介入させないようにカギ付きのカゴの中に閉じ込めるんだけど、誰かがそのカギを開けちまってさ。だったら今度は誰も介入できないようにケージマッチで…みたいなさ。
そういうものじゃん。プロレスって。そういう経験をしてきたことを生かしたのがプロレスだよ。だからやっている時は充実感があったな。だけど、そんなnWoもわずか3年で“終わり”を迎えることになる。
※ 蝶野が結成したヒールユニット。社会現象にもなり大注目された。後に「TEAM2000」に吸収された。












