【武藤敬司の軌跡(23)】1997年「nWoジャパン」に入ってから米国にも呼ばれるようになった。ハルク・ホーガンの助太刀をしてね。当時ホーガンとデニス・ロッドマン(※)と3人でメシを食ったりもした。nWoは芸能人や他スポーツ選手が加入したのが特徴的で、日本でも野球選手やサッカー選手が加わってくれたよ。

ホーガンとロッドマン(左)のツーショット(97年)
ホーガンとロッドマン(左)のツーショット(97年)

 ところが途中で肝心の蝶野正洋が抜けて終焉に向かっていくんだよ。理由? ぶっちゃけ、nWoであんだけもうかって、俺たちも名前が広まったのに分け前が入らなくてね。多分、そういうのもあって蝶野は「TEAM2000」をつくったんだと思うよ。あれだけブレークした感があるのに、俺たちの手元にはゼロだったから…。グッズをつくっていたところとかはもうかったと思うんだけど、俺なんて1回、家族を招いてもらって高級焼き肉を食って終わりだったんだよ(苦笑い)。

 グレート・ムタが大仁田厚の化身のグレート・ニタと神宮球場で電流爆破戦をやったのもこのころ(99年8月28日)か…。なんだかんだ、まず米国で(ザ・グレート)カブキさんがブレークして、さらにムタがその息子として出たわけで。その後、その“毛色”がウヨウヨ出てくるんだよ。自分がやりたくなくてもプロモーターから「やってくれ」って言われちゃうんだ。宮本和志だ、SANADAだ、みんな「ムタのマネをしてくれ」って言われたらしいよ。

 そういう中で大仁田もマネしたんだろうけどさ。だから新日本が「ムタ」の商標を登録したんだよ。当時は新日本でマージャンがブームになってさ。ある時(社長の)坂口征二さんが社員と先にやってて「すいません。遅れました」って謝りながら入ったら「いいよ、武藤。じゃあこれにサインしろ」って。遅れたから申し訳なくて中身を確認しないでサインしたら、それがムタの商標だったんだよ。

マージャン卓を囲む(右から)武藤、坂口、倍賞鉄夫氏、星野勘太郎
マージャン卓を囲む(右から)武藤、坂口、倍賞鉄夫氏、星野勘太郎

 だから後年、俺が全日本に行った後もムタは新日本のものだった。だから新日本がニセのグレート・ムタを出したんだよ。だけどアイツ本物なんだ、商標上は。今は俺が持ってるよ。その後、新日本の東京ドームに呼ばれた時に出場条件として商標とコスチュームを返してもらった。

 一方で、ヒザがかなり苦しくなっていた。半年ごとに米国で潤滑油を入れないと厳しい状態だった。だから、そういう意味で高田延彦戦は本当に大きな意味があったんだよ。足4の字とドラゴンスクリューを中心に、ムーンサルトを飛ばなくても試合を構成できるようになっていたからさ。

 nWoは結局、2000年1月4日に蝶野と戦って終了になる。で、俺はまた米国に主戦場を移す、つもりだったんだけど…。

 ※当時、米プロバスケットボールNBAのスター選手

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