【武藤敬司の軌跡(13)】 アントニオ猪木さんの横に立たせてもらえることが多くなっていた俺は、1987年8月19、20日と2連戦で行われた両国国技館大会でも同じチームになった。

 ただ、この時のテーマは新世代の「ニューリーダー」と旧世代の「ナウリーダー」の抗争だったんだ。それなのに俺は、猪木さんサイドの「ナウリーダー」に入れられたんだよ。使い勝手がいいというかなんというか…。それで初日が5対5のイリミネーションマッチで最後まで残って負けたんだけど、問題は2日目だ。来日予定だったマサ斎藤さんがパスポートをなくしたとかで急きょ来れなくなってさ。当初「藤波辰巳、長州力組VS猪木、X組」で本当の「X」はマサさんだったんだけど、代わりに俺が出ることになって…。すげえブーイングと「帰れ」コールだった(苦笑い)。

87年10月4日、伝説の巌流島決戦
87年10月4日、伝説の巌流島決戦

 その日は映画「光る女」の撮影で知り合ったスタッフの女の子を招待してたんだよ。そこに大ブーイングだから。恥ずかしくてさ。それから連絡もとれなくなった。マサさんのせいで散々だよ(笑い)。

 そういえば、そのころから高田延彦さんや前田日明さんたちとよく六本木へ繰り出すようになっていたな。熊本で旅館をぶっ壊した後から、徐々に仲良くなったんだ。まさに「雨降って地固まる」ってやつだ。その後は高田さんともタッグを組んだりもしたよ。

 一方で、月面水爆(ムーンサルトプレス)の影響でヒザに違和感を感じるようになっていた。だから右ヒザ半月板の除去手術を受けたんだ。その影響でビートたけしさんが「TPG(たけしプロレス軍団)」としてビッグバン・ベイダーと乱入してきた12月27日の両国国技館大会も欠場していてね。会場にはいたんだけど、その時のブーイングが俺が食らったのよりはるかにひどくてさ。ちょっと安心したよ(笑い)。

 それを見届けて…ってわけじゃないけど、年明けの88年1月2日に俺はプエルトリコへ向かう。もともと会社にずっと「米国に戻りたい」って言い続けていたんだ。入門した時は、先輩たちが退団してUWFやジャパンプロレスに移って解放感があったけど、みんなが帰ってきてまた目の上にいたから、やっぱり苦痛だったんだよ。

 そこへ桜田一男(ケンドー・ナガサキ)さんから新日本に「プエルトリコの団体が1人、日本人を使いたがっている」って連絡が来て、坂口征二さんから「武藤、行くか?」って言われたんだ。もちろん「行きます」って即答だよ。米国ではないけど、脱日本に全く迷いはなかったね。

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