【武藤敬司の軌跡(12)】スペース・ローン・ウルフとして帰国した後、UWF勢との戦いを繰り広げていた1987年に意外な話が舞い込んだ。相米慎二監督の映画「光る女」で主演をすることになったんだ。なんだかんだ大変だったけど、エンターテイナーとして非常に勉強になったよ。特に照れがなくなったね。恥ずかしがっていたら演技なんかできない。何人もが見ている中で濡れ場だってあるんだから。

 多くの人間が関わって、一つのものをつくり上げるというエネルギーの方向はプロレスと一緒だよ。違いはプロレスは自分で自由にできること。そしてプロレスの方が決定的に面白いのはライブであるってことだね。お客の反応によって試合をコントロールできるから。

映画「光る女」ロケ、メイク直しの武藤
映画「光る女」ロケ、メイク直しの武藤

 撮影は3月から約3か月に及んだ。その間、リングから抜けるから不安はあったよ。撮影中に住み込んでいたスタッフの家の車庫にベンチプレスとかダンベルとかを持っていって、撮影後にウエートとコンディションだけでも続けていた。北海道のロケでもホテルに練習機材を送ってもらってフロントに置いて練習していたよ。映画をやりながらも「俺はレスラーだ」というプライドは持っていたし。終わったら戻らなきゃいけないという気持ちもあった。

 リング上では、その撮影の前後からアントニオ猪木さんと組ませてもらう機会が増えていた。多分、かわいがってもらってたんだよ。見込まれてたっていうか。例えば地方巡業に行ったら猪木さんの横に立って外国人選手と試合することが多かった。試合の内容? 俺がやられてやられて猪木さんにタッチして、延髄斬りを「バーン!」だよ(笑い)。

 当時の猪木さんからは怒られたこともないし、何かを教わったってわけでもない。でも米フロリダでリック・フレアーを見た時と同じことを感じていたよ。そのころの猪木さんはいい年で、俺は若いわけだ。ぶっちゃけ、猪木さんやフレアーより俺の方が何をやっても優れてるんだよ。体力もあるし、若いし、運動神経もいい。だから「あとは何をすればいいんだろう」っていうモヤモヤ感が常にあった。

 今思えば、それが「作品」なんだよ。当時の俺はまだ人の記憶に残るような「作品」を何もつくっていない。フレアーや猪木さんとは、その差があった。ただ当時はそんなこと分からねえから。その後は「猪木さんと比べても…」っていうふうになっていくけど、それはずっと先の話だ。

 だけどそんなことを考えたのもほんの一瞬だよ。当時は試合数が多くて、それをこなすのに必死だったから。その流れのまま、俺は世代抗争に妙な形で巻き込まれることになる。

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