【越智正典 ネット裏】 1951年8月19日、名古屋地方は快晴であった。ナゴヤ球場(中日球場)で中日―巨人。3回裏、中日の4番・西沢道夫が打席に入ったとき、ネット裏席2階から出火した。あとで出火原因はお客さんのタバコの火の不始末とわかったが、スタンドは木造である。強風にあおられて猛火となって…。死者4人、負傷者318人の大惨事になった。

 鉄腕・杉下茂がのちのちまでも「球審の三左衛門(谷口)さんは偉かったなあー。右手を高くあげて『全員退避!』と叫んだんだ。もし、三左衛門さんが慌てたり逃げ出していたら、もっと大変なことになっていただろうな。グラウンドに飛び降りた人も、わしらもしっかり退出できたよ」。

 谷口三左衛門。セ・リーグ審判9年、パ・リーグ5年、出場試合1291。ふだんから堂々としていた。谷口家はお公家さんである。

 スタンドが木造だったのにはわけがある。名古屋軍は巨人、タイガースに続いて36年1月15日に誕生した。4番目に誕生したセネタースが近代二塁手の開祖・苅田久徳が人気で、オシャレなチームだったが、名古屋軍はハイカラなチームだった。

 トム・高橋(吉雄、ワシントン大学)のヒットエンドランの名人芸にびっくりした。トムさんは戦後、社会人野球のいすゞ自動車で活躍する。見に行くと妙技は少しも衰えていなかった…。

 名古屋軍は発足後、主催試合を甲子園、西宮、後楽園球場に持って行って地元の現緑区の鳴海球場でほとんど開催しなかった。職業野球連盟結成直後のトーナメント大会(三都大会)を別にすると38年5月14日に金鯱戦、15日に対巨人、対イーグルス、15年4月20日に南海、21日に阪急。鳴海球場では主催5試合で戦前の歴史を終えている。それというのも会社名が「大日本野球連盟名古屋協会」であったように、もうひとつ、リーグを作りたかったのだが、結局、戦争で実現できなかった…。

 終戦。長い間、地元で地元の野球を見られなかったお客さんに応えて、名古屋市中川区露橋に敷地3万6400平方メートル、収容2万5000人、昼夜兼行、突貫工事に次ぐ突貫工事で1か月半で完工。それでスタンドは木造だったのである。

 48年12月2日、ナゴヤ球場(中日球場)が竣工したのであった。

 まだ1リーグ時代で8球団の49年のペナントレースが始まる。中日は監督が天知俊一。服部受弘(岡崎中学、旧制)が24勝。腕っぷしが強かった。入団第1年の杉下茂は登板29試合、8勝12敗。帝京商業以来の恩師・天知にすでにフォークボールを伝授されていて「魔球」の練習をしていたが、まだ試合に投げていない。翌50年の対大洋の札幌円山球場での試合の途中、このとき大洋の元巨人・初代「塀ぎわの魔術師」平山菊二(下関商業)が打席から戻ってきてナインに知らせた。

「杉下がヘンなナックルボールを投げているぞ」

 巨人2代目の塀ぎわの魔術師は高田繁(浪商、明治大)である。高田は後楽園球場では守備につくのに必ず65ストライド。チェンジになってベンチに戻ってくる時も65ストライド。途中、歩くことは決してなかった。現役13年、相撲でいうと全場所敢闘賞選手である。

 =敬称略=