【豊田誠佑 おちょうしもん奮闘記(6)】プロ野球の世界に進みたい。そう考えていた俺は社会人からの誘いを全て断り、1978年11月22日に行われるドラフト会議を待っていた。ところがこの年のドラフト会議前日にとんでもないことが起こった。巨人が突然、江川卓さんと契約を結んだことを発表したのだ。
江川さんは前年のドラフトでクラウンライター・ライオンズが交渉権を獲得したが入団を拒否し野球浪人となっていた。当時の野球協約では交渉権を持つ球団が選手と交渉できるのはドラフト会議の2日前までとなっていてドラフト前日には交渉権が失効しているというのがジャイアンツの主張。いわゆる“空白の一日”と呼ばれるものだが、当然そんなことが認められるわけはない。巨人も江川さんも大バッシングを受けることになったが、態度を硬化させた巨人はドラフト会議をボイコット。ドラフト会議は史上初めて11球団で行われることになった。
世間は江川さんの問題で大騒ぎだったが、正直俺にとっては関係のないこと。「絶対指名しますよ」と確約してくれた球団はなかっただけに、自分を指名してくれる球団はあるのか、そのことで頭の中はいっぱいだった。「どこかからお呼びが掛かればいいな」という気持ちだったよ。
ドラフトが始まるとチームメートの高橋三千丈が中日から1位指名された。またロッテ、南海、阪神、近鉄の4球団が1位指名で競合した江川さんは阪神が交渉権を獲得。だがドラフト会議では俺はどこからも名前が呼ばれることはなかった。これでプロ入りの夢も消滅…。と思うだろうけど、当時はドラフトで指名されなくてもドラフト外で入団することができたんだ。ドラフト後に中日から「うちに来てくれ」と声が掛かった。「ああよかった。どこでも行くぞ」。そういう気持ちだったね。
ちなみに中日はこの年、10人の新人選手を獲得したけどそのうち、ドラフト外での入団が6人だった。ドラフト外でも中日はいろいろと配慮してくれた。当時の1位指名の契約金の相場は3000万円ぐらいだったけど中日はドラフト外の俺に2300万円の契約金を用意してくれたからね。今の育成契約とは全然違ったよ。
阪神の1位指名となった江川さんは、1度タイガースに入団した後、小林繁さんとのトレードという形で希望していた巨人に入団。また明治の同期だった鹿取義隆もドラフト外で巨人に入った。
あのとき江川さんは日本中から叩かれたけど俺は心のどこかで江川さんには感謝していた。江川さんという日本一の投手から2試合で8打数7安打を記録して「江川キラー」と呼ばれたからこそ俺は評価されたし、プロ入りできたのかもしれない。そしてプロ入り後も俺は江川さんと熱く激しい戦いを続けていくことになった。
☆とよだ・せいすけ 1956年4月23日生まれ。東京都出身。日大三高では右翼手として74年春の選抜大会に出場。明治大学では77年の東京六大学春のリーグ戦で法政のエース・江川から8打数7安打と打ちまくり首位打者を獲得。「江川キラー」と呼ばれるようになる。78年オフにドラフト外で中日ドラゴンズに入団。内外野をこなせるバイプレーヤーとして活躍し82、88年のリーグ優勝に貢献した。88年に現役を引退後はコーチ、スカウト、昇竜館館長を務め2014年に退団。現在、名古屋市内で居酒屋「おちょうしもん」を経営している。












