【長嶋清幸 ゼロの勝負師(4)】1984年は打撃に波があり、ノーヒットが続いたことで7月、古葉竹識監督に「スタメンを外してください」と申し出た。でも、監督に「ヒットはそのうち出る」とたしなめられ、気持ちのモヤモヤは吹っ切れた。開き直ったら数試合後にヒットが出たけど、開き直りってずっと続くものではなくて、やはり打撃は「こうだからこうなる」というつながりがないとダメ。今、なんで打てたのかな?ではダメなんだ。

 9月に入ってチームは中日と首位争い。そのころになると俺の打撃も落ち着いていたけど、自分の中には「まだ全然貢献できてない」という思いもあった。そして15、16日の広島市民球場での巨人戦を迎えた。

 その年、打席の途中で捕手の山倉和博さんと話したことがあった。俺が5番、6番に衣笠祥雄さんだった時、山倉さんがマスク越しに「マメ、お前とは勝負しない」と歩かされたことがあった。「俺を歩かせるってどういうことですか?」「お前の調子うんぬんは関係ない。お前のチャンスでの強さが分からん」って。打席でそんな話ができていた時代。俺にはそんな印象があったのかな。

 15日は西本聖さんと山倉さんのバッテリー。0―2で迎えた9回無死一、二塁で打席に入った。準備として考えていたのはバントが8割。こっちは同点になれば強いチームだし、どう考えても送りバントかセーフティーバントと思ってサインを見たら「打て」。あれ? サイン見間違えたか?と思って三塁コーチの阿南準郎さんを見たらグーをしている。俺が戸惑っていると思ってグーを見せたんでしょう。

 西本さんなんで初球からシュート系が外に来るかも…間違えて真ん中に来るかもしれない、と思って踏み込んだら真ん中に来た。それが右翼席にサヨナラ3ラン。後年、西本さんと話したら9割バントと思っていたらしい。西本さんはフィールディングがめちゃうまいんで、三塁側にバントしてくるだろうから、二走を三塁でアウトにしようと思って三塁に走るつもりだったと。それで少しボールを「置きにいった」。初球を絶対振るぞ、と決めた時の自分は結構強かったと思う。

 翌16日は0―0の延長12回、相手は江川卓さんだった。フルカウントからカーブを右翼ポール際にファウル。一瞬「昨日も今日もって、そんなうまい話、あるわけないわなあ」と自分の中で思った。そうしたら江川さんが笑ったんだ。これは真っすぐ以外、投げるボールがないんじゃないか。変化球をあれだけ打たれたら、これは真っすぐしかない。懐に100%来るとイメージし、腕を畳んで打とうと準備した。

 詰まったけど、押し込んだ打球は右翼席に消える2試合連続のサヨナラ弾。江川さんは顔面蒼白で降板し、俺は「こんなことがあるんやな」と思いながらダイヤモンドを一周した。応援団の人もグラウンドに下りてきていた。あれで巨人の追撃の芽を完全に摘んだ。

 ☆ながしま・きよゆき 1961年11月12日、静岡県浜岡町(現御前崎市)出身。静岡県自動車工業高から79年ドラフト外で広島入団。83年に背番号0をつけて外野のレギュラーに定着し、ダイヤモンドグラブ賞を受賞。84年9月15、16日の巨人戦では2戦連続のサヨナラ本塁打を放って優勝に貢献し、阪急との日本シリーズでは3本塁打、10打点の活躍でMVPに輝く。91年に中日にトレード移籍。93年にロッテ、94年から阪神でプレーし、97年に引退。その後は阪神、中日、三星(韓国)、ロッテでコーチを続けた。2020年に愛知のカレー店「元祖台湾カレー」のオーナーとなる。