【平成球界裏面史 近鉄編132】平成8年(96年)に逆指名ドラフト2位で関大から近鉄入りした岡本晃投手。前年に近鉄を退団したラルフ・ブライアント外野手のイメージが強かった背番号「16」を背負うことになった。入団2年目の平成9年(97年)から頭角を表し平成13年(01年)の近鉄最後のリーグ優勝にも貢献した。
救援投手として平成14年(02年)は7勝、18セーブ、防御率1・82を記録するなど活躍。平成15年は(03年)それまで守護神を務めていた大塚晶文が海外移籍を目指しポスティング申請したものの、移籍先が決まらず中日へ移籍したため、岡本がクローザーに指名されシーズンをスタートした。
ただ、平成13年、14年(01年、02年)の勤続疲労は大きかった。45試合に登板するも1勝3敗2セーブ、防御率が4・76と不調。近鉄最後のシーズンとなる平成16年(04年)には背筋を痛めてしまい、わずか4試合の登板で防御率9・00と結果を残すことができなかった。
近鉄の本拠地最終戦となった9月24日の西武戦(大阪ドーム)で岡本はマウンドに立っている。このシーズンは6月13日に日経新聞の朝刊一面で「近鉄球団、オリックスに譲渡交渉」とスクープ記事が報じられた。当日の昼過ぎに近鉄本社が会見を開き「合併の基本合意」を認めた。
9月8日のオーナー会議で合併が正式に承認される流れの中で、選手による署名活動やファンの合併反対運動、ライブドアの球団買収表明などが浮上。当時31歳を迎えていた岡本にとっても、故障を抱えていたことも相まって不安なシーズンだったことだろう。
労組選手会とNPBサイドの労使交渉が決裂し9月18日、19日にはプロ野球史上初のストライキが決行された。9月22、23日の労使協議では翌シーズンを12球団制維持のまま行い、そのために新規参入球団の審査を開始することが決まった。
ストライキで選手会の12球団維持の要求は通った。だが、近鉄とオリックスが合併することは変わらない。気持ちの整理が付くはずもないまま平成16年(04年)9月24日に近鉄バファローズの本拠地最終戦が行われた。
大阪ドームの内外野自由席が無料開放され、球場には4万8000人のファンが詰めかけた。先発は当時、35歳のベテラン高村祐。スタメンは1番・大村直之、2番・水口栄二に続き選手会長の礒部公一が3番を務めた。4番は看板選手の中村紀洋。5番には平成13年(01年)に代打逆転サヨナラ満塁優勝決定ホームランを打っ北川博敏が入った。
梨田昌孝監督は「いろんな思いがあると思う。それらをひとつずつ確かめながら野球を楽しんで」と選手たちを送り出した。ベンチ前での声出しでは礒部が「近鉄らしい思い切った野球で、最後を締めましょう」と声を張り上げた。
岡本にとっては中村も礒部も同級生。チームの中心的立場となった年代で所属球団が消滅するという経験したことのない歴史的事件の渦中にあった。順位は5位だったがそんなことは関係ない。近鉄最後のホームゲームに備え岡本も準備を進めていた。














