衝撃の事実が16日、発覚した。日本ハムは14日に海外フリーエージェント権を行使して中日に移籍した大野奨太捕手(31)に関し、人的補償を求めず、金銭補償を求めると発表したが、舞台裏で日本ハムはある選手に白羽の矢を立てていた。それが何と球界のレジェンド・岩瀬仁紀投手兼コーチ(43)だったのだ。岩瀬の日本ハム移籍はなぜ幻となったのか。詳細をお伝えする。

 日本ハムが中日にFA移籍した大野奨に関し金銭補償で決着したことに違和感を感じた人も多かっただろう。昨年12月20日、中日から28人のプロテクトリストを提出された日本ハム・吉村浩GM(53)は「検討に値するということです。栗山監督にも報告しました。たぶんウチは金銭だと思っているでしょうけど、ファイターズとしてインパクトはありますね。すぐには決まりません。これからです」と魅力的な選手がプロテクトから漏れていることを喜々として明かした。

 球界関係者によると、そのインパクトある選手が「岩瀬だった」。昨季、プロ野球新記録となる950試合登板を達成した岩瀬は、4年ぶりに50試合登板、3勝6敗2セーブ、防御率4・79の好成績を残してカムバック賞を受賞した。今年44歳となるが日本ハムサイドはまだ十分にやれると判断。当初から日本ハムは人的補償として左のリリーフ投手をターゲットにしており、誰よりも多くの場数を踏んでいる左腕の経験もチームにプラスの影響を与えることも考慮したのだろう。

 日本ハムは人的補償を求めることを決め、中日にも通達。しかしその後、年が明けても日本ハムサイドからはなかなか発表はなく、吉村GMは「長引かせているわけではない。複雑な要因が絡んでいる」と何か問題が発生していることを示唆。そしてようやく14日に人的補償を求めないことを発表した。吉村GMは「熟考の末です。(理由は)お答えできない」と口を閉ざした。いったい何があったのか。

 実は日本ハムから岩瀬の指名を受けた中日は、大混乱に陥っていた。中日としては岩瀬の指名はまさかの出来事で「岩瀬は超のつく大ベテラン。今季から兼任コーチの肩書もついている。球界の暗黙の常識からしても兼任コーチは選ばないと踏んでいたようだ」と球界関係者はいう。

 チームを長きにわたって支えた功労者を人的補償で移籍させるなんてことになれば球団にとっては大失態。ファンから批判が噴出するのは間違いない。とはいえルールはルール。日本ハムサイドには少しの非もない。中日球団サイドはこの事実を岩瀬本人に伝え、納得してもらうよう努力した。しかし、頑として岩瀬は首を縦に振らず。「最後には『人的補償になるなら引退する』とまで言ったらしい」(球界関係者)

 吉村GMの「複雑な要因が絡んでいる」とはこの舞台裏でのゴタゴタを指していたわけだ。

 最終的にはそんな事情を見かねた日本ハムサイドが岩瀬の人的補償をやめる大人の対応を見せ、金銭補償で決着となった。中日・西山和夫球団代表(69)は金銭補償になったことに「こちらとしてはありがたい選択をしていただいた」とコメントしたが、それはまさに本音だったのだ。

 15日にスタートした合同自主トレに姿を現したもう一方の主役・大野奨は一連の騒動を知ってか知らずか、金銭補償になったことについて「何の心配もしないでやれる」と言った後に「コメントしづらいですね」と言葉を濁した。

 キャンプイン前に起きたまさかのドタバタ。球界全体としてもFAというルールの根幹を揺るがす大問題となってしまった。

【デスクの目】今回起きた「人的補償拒否問題」はFA移籍のシステムそのものを揺るがす重大な「あしき前例」となりかねない。

 野球協約には「旧球団から指名された獲得球団の選手は、その指名による移籍を拒否することはできない。当該選手が、移籍を拒否した場合は、同選手は資格停止選手となり、旧球団への補償については本条第3項(2)号又は本条第4項(2)号(いずれも金銭での補償)を準用する」とある。日本ハム側があくまでも正当性を主張すれば、岩瀬は資格停止処分となっていたわけで、それを回避した日本ハム側の温情に中日は救われた格好だ。

 こうした事態を防ぐためには、各球団の良識に任せるのではなく、早急にルールの見直しも必要ではないか。たとえば「人的補償で移籍した選手がすぐに引退してしまうなどした場合は、追加で割り増し補償金を支払う」「球団に罰金などのペナルティー」など、問題が発生したら指名した球団にもメリットがあるような罰則を加える方式だ。もしくは「選手をプロテクトから外す場合は事前に通告して同意を得る」「同意を得られない選手をプロテクトから外さない」と、事前に対策を施すようにすれば、トラブルは回避できる。一部の球団などからは「人的補償そのものをなくしてしまえ!」という意見も出るかもしれない。

 トレード拒否事件といえば、巨人の定岡正二が近鉄へのトレードを拒否し、若くして引退した事件が有名だ。しかし、トレードなら話が消滅するだけだが、FAの人的補償はルールにのっとったもの。ここに「抜け穴」があってはならない。

(注)定岡は1981年に11勝、82年に15勝をマーク。江川卓、西本聖とともに3本柱の一角として80年代前半の巨人を支えた。83年に腰痛の影響で7勝と2桁に届かず、翌年は5勝。救援に回った85年は4勝2セーブ。槙原寛己、斎藤雅樹が台頭したこともあり、同年オフに近鉄・有田修三とのトレードがまとまった。しかし、通告された定岡は拒否。任意引退となり、29歳で現役に別れを告げた。