【熊澤とおる 人生100年時代のセカンドキャリア(5)】 東京大学のホームページによると、昨年の合格者数は文科一~三類が1231人、理科一~三類は1765人で、計2996人だそうです。それに比べてドラフト会議を経てプロ野球の門をくぐったのは支配下77人、育成51人の計128人でした。単純比較はできませんが、数字だけでみればプロ野球は東大よりも狭き門です。
僕が1991年のドラフト会議で3位指名されて入団した当時の西武は森祇晶監督のもと、いわゆる第2次黄金期の真っただ中でした。86年から88年まで3年連続日本一を達成し、90年から94年までパ・リーグ5連覇。そのうち90年から92年までは2度目の3年連続日本一を成し遂げ、巨人に代わる「新盟主」とまで言われていた時代です。
埼玉で生まれ育った僕にしてみれば、超優良地元企業に就職した形でした。実を言うと、あまりプロ野球そのものに興味があったわけではなく、西武以外で顔と名前が一致していたパ・リーグの選手は86年までロッテに在籍されていた落合博満さんぐらい。そんな僕でもオールスター戦にも多くの選手を送り出していた西武ライオンズは特別なチームでした。
しかし、選手として一員になると、厳しい現実が突きつけられます。西武が常勝軍団たり得たのはメンバーが固定されていたからで、僕がドラフト会議で指名された91年のオーダーを例に挙げると1番二塁の辻発彦さんから2番右翼の平野謙さん、3番中堅の秋山幸二さん、4番一塁の清原和博さん、5番DHのデストラーデ、6番三塁の石毛宏典さんまではガッチガチ。8番捕手の伊東勤さんに9番遊撃の田辺徳雄さんも不動でした。
唯一、固定されていなかった左翼にしても左打者では森博幸さんに安部理さん、吉竹春樹さん、右打者も笘篠誠治さんに「球界一の鉄砲肩」と称された羽生田忠克さんとタレントぞろい。簡単にチャンスをもらえるようなチームではなく、入団1年目から、よほどしっかりやらないことには埋もれてしまうと身を引き締めたものでした。
僕のセールスポイントは高校通算52本塁打の長打力に50メートルを5秒8の俊足、そして肩の強さ。ただ、当時の西武にはそうした選手がゴロゴロいました。そんな中でレギュラーの一角に割って入るには、首脳陣が求める役割をこなせる選手になるしかありません。「AKD砲」と恐れられた秋山さん、清原さん、デストラーデからなるクリーンアップは12球団屈指の破壊力を誇り、チームが必要としていたのは、バントやチーム打撃のできる“脇役”だったのです。
☆くまざわ・とおる 現姓は中村。1973年9月7日生まれ。埼玉県出身。所沢商高から91年ドラフト3位で西武入団。一軍出場はなく98年に引退。二軍用具係兼サブマネジャーとして球団に残り、2005年オフから松井稼頭央(当時メッツ)の個人トレーナーとして渡米。08年に一軍打撃コーチ補佐として西武に復帰し、日本一に貢献。二軍打撃コーチ、二軍守備走塁コーチを経て11年に一軍打撃コーチ補佐を務める。11年退団。現在は埼玉・入間市で整骨院を営むかたわら、小中学生を対象とした野球塾を運営している。












