【越智正典 ネット裏】1936年、巨人が渡米中で6球団で職業野球が始まったとき、連盟には公式記録員はいなかった。2月26日「二・二六事件」、8月3日第11回オリンピック・ベルリン大会が開会。8月11日、河西三省アナウンサーが女子平泳ぎ200メートル決勝で「前畑ガンバレ!」と実況。日本中が湧き立った年である。時代はしかし、険しかった。農村の連年の凶作、不況。2月20日に長嶋茂雄が千葉県臼井(54年の市町村合併で佐倉市)で長嶋家の次男として生まれている。

 タイガースの初代「主将」松木謙治郎によると、いよいよ始まるので明日から練習…と兵庫県高砂の宿に着いた晩、監督森茂雄(タイガース初代、イーグルス初代、戦後早大監督、大洋球団社長)の部屋に呼ばれた。「景浦を投げさせると、三塁を守るのがおらんのだ」。で、「呉港中学から入ってきたピッチャーの藤村富美男を使ったらどうですか、結構やりますよ…とお答えしました」。

 どの球団も結団あわただしく、連盟が公式記録員まで及ばなかったのは当然であろう。

 報知新聞社76年刊、編集兼発行者田中茂光氏の「定本・プロ野球40年」は「お断り」として実に丁寧に「いままで公表されてきた一リーグ時代の記録については、集計ミスや校閲ミスが多く、現在セ・パ両リーグ記録部の手で集計のし直し作業が進められている。特に36年についてはもととなる連盟のスコアカードに勝敗投手の記載もなく、未整理の状態。本社の推定で付けた36年については全くの参考記録として見ていただきたい」
 36年4月29日、6球団が甲子園球場に集った。名古屋8対5大東京、タイガース3対0金鯱、セネタース9対2阪急、この3試合はお披露目である。

 7月1日、東京・戸塚早大球場で(連盟)「結成記念第1回全日本野球選手権大会」が開催された。帰国した巨人が登場。8対9名古屋。7球団が揃ったのでこの日がプロ野球の誕生日とされている。この第1回記念大会は敗者復活式トーナメント大会、普通のトーナメント大会、期間が短い総当たりリーグ戦…をとりまぜて挙行した。プロ野球はまた“神代”である。

 翌37年2月5日、日本職業野球連盟は第2回の総会を開き、時事新報記者・広瀬謙三氏の記録員「任命」を可決した。広瀬謙三氏が公式記録員第1号である。当局の指示もあって職業野球の開催は、水・木・土・日曜日の週4日、1日2試合と決められていた(東京読売巨人軍五十年史)ので、記録も何から何まで色々と大変だっただろう。

 ピッチャーのロジンバッグの使用もこの総会で決まった(同)。

 が、7月7日「盧溝橋事件」。政府と軍部は7月11日に大陸への派兵を決めた。日本は戦争へ。45年8月10日ポツダム宣言受諾、15日終戦の大詔、日本職業野球は焦土のなかで東西対抗の挙行を決めた。広瀬謙三氏がスコアカードに記入している。「11月23日試合開始午後1時11分(神宮球場)天気晴れ 観客6千人(のちに5817人とわかる)」(東京読売巨人軍五十年史)
 =敬称略=