【昭和~平成スター列伝】“世界の16文”ジャイアント馬場が海外修行中の1964年2月だけで当時の3大タイトル(NWA、WWWF、WWA)に連続挑戦した偉業は前回、前々回に触れた。今週は最後を飾った2月28日(日本時間29日)ロサンゼルスで“銀髪鬼”フレッド・ブラッシーに挑んだWWAヘビー級王座戦について書きたい。

ブラッシーにヤシの実割りを叩きつける馬場。見事なフォームだ
ブラッシーにヤシの実割りを叩きつける馬場。見事なフォームだ

 ニューヨークでブルーノ・サンマルチノのWWWF王座に挑戦(17日)した後、馬場は西海岸へ転戦。WWAで大暴れした後に王座挑戦を実現させた。本紙は1面で詳細を報じている。

「1本目は馬場の16文キック2発が肩にさく裂。ブラッシーはお得意のスタイルで早くも“ギブアップ”のゼスチャー。馬場はブラッシーの髪をつかむとリング中央へ。反動でブラッシーが同体で倒れた。馬場は後頭部を打って苦しんでいる。ブラッシーは宙に舞い上がって、馬場のノド元に必殺のニードロップを連発。先制のフォールを奪った(30分45秒)。2本目は馬場が逆襲し空手チョップの“脳天唐竹割り”。噛みつきを逃れてスリーパーホールドの猛攻。時計の針は10時半を回った。20分を過ぎるとグロッギーのブラッシーを腰投げで叩きつけた。ダウンしたところへ145キロの豪快な肉弾重爆撃を叩きつけてフォールして1―1のタイに(20分8秒)。3本目、残る時間はあと10分。馬場は空手チョップを12連発。タックルでブラッシーをエプロンに追い出した。髪をつかんで鉄柱にガンガン叩きつける。この猛攻にブラッシーは血を吐いて場外に落ちて失神。レフェリーはカウントを取り始めるがカウント14まで来たときに“時間切れ終了”(61分)のゴング。しかし興奮した大観衆の歓声でリング上では聞き取れず、レフェリーは馬場の右手を高々と上げた。観衆は“新英雄”の誕生にわいた。しかしリングサイドのコミッショナーが“時間切れ引き分け”の判定であることをアピール。あと6秒あればカウント20のKO勝ちだった。馬場は“魔の6秒”に泣いた」(抜粋)

 王座奪取こそならなかったが、偉業を打ち立てた馬場は4月に凱旋帰国。力道山亡き後の日本プロレス界のトップに君臨することになる。

 約半年間の海外修行で馬場は数億円を稼いだとされる。後年馬場は「あの時は稼いだ。NYでは3800ドル(当時の日本円で約137万円。現在の価値では約4万ドル=640万円)だった。当時のチャレンジャーとしては、俺の知っている限り最高のギャランティーですよ。ロスで2試合タイトル戦をやって1試合5000ドルだった」と語っている。和田京平名誉レフェリーは「馬場さんはあの時の俺はNFLの選手より稼いでいたんだってよく言っていた。少なくても4~5億は稼いでいたんじゃないかな」と述懐する。現在のNFLの選手の平均年俸は約5億円とされており、当時の馬場は半年間で現在の10億円の価値は稼いだとも推測できる。当時の“世界の16文”はすべてにおいてスケールが違ったのである。 (敬称略)