【中島輝士 怪物テルシー物語(最終回)】ここまで高校時代から現役、スカウト、指導者、海外経験など数々のエピソードをお話しさせていただきました。ソウル五輪のあった1988年、私がプロ入り1年目だった89年というのは時代が昭和から平成へと移り変わる頃でした。今は令和の世の中です。日本の野球は進化を続けドジャース・大谷翔平選手のような規格外の選手を生み出す時代となりました。
大谷選手といえば二刀流。ここで少し私のお話ですが、現役最終盤に二刀流のオファーがあったことを書いておきます。私が日本ハムから近鉄に移籍して3年目、98年当時の話です。現役最終年となる98年の一軍出場はゼロ。私はそのまま引退し、近鉄のコーチになる予定でした。
ただ、当時のダイエー(ソフトバンク)で球団専務を務められていた根本陸夫さんが、私を熱心に誘ってくれたんです。根本さんといえば、オールドファンには有名過ぎる人物でしょう。広島、クラウン、西武、ダイエーで監督を務めた名伯楽であり、フロントとして「球界の寝業師」と呼ばれ、有力選手の獲得やトレードを何度も成功させたフィクサーのような存在です。
根本さんは私の柳川高時代の恩師・福田精一さんとも懇意だったこともあり、私を投手としてダイエーに呼ぼうと熱心に誘ってくださいました。根本さんが福岡ドームでのゲームを視察された際、外野からの私の返球を見て投手をやらせようという話に至ったそうです。
当時の私は30代半ばです。社会人時代に右肩の故障(右肩鎖関節下の血行障害)で投手を断念した私ですが、プロでプレーする間に問題なく投げられるように回復していました。もちろん、打者としても体は動きますから、夢にも思わなかった二刀流が実現できていたのかもしれません。今となれば、やっていればよかったのかとも思いますが、当時の私の心は近鉄から打診されていたコーチ業に目が向いていましたね。
さらに、根本さんは移籍を打診されてから直後と言っていいタイミングで急性心筋梗塞で他界されたんです。近鉄のコーチに誘っていただいた当時の足高圭亮球団本部長(後に球団代表)も2022年に亡くなられました。私のプロ野球最初の監督だった日本ハム・近藤貞雄さんから土橋正幸さん、大沢啓二さん、上田利治さんは皆、鬼籍に入っています。近鉄時代の佐々木恭介監督だけはご健在ですが、長い時間が過ぎたんですね。
社会人時代の恩師、ソウル五輪当時のコーチだった川島勝司さん(ヤマハ)、山中正竹さん(住友金属)はそろって野球殿堂入りされてます。でも、鈴木義信監督(東芝)はそうではない。鈴木さんにも殿堂入りしてもらいたいという思いも残っていたり…。
もうスペースがなくなってきました。この連載のおかげでかつての恩師、仲間たちと久々に連絡を取る機会もありました。自分の野球人生を振り返る場所をいただくと同時に、私自身の思いを口に出すことで今後の未来に向かっての活力も湧いてきました。野球、人とのご縁に感謝して結ばせてもらいます。読者の皆さま本当にありがとうございました。











