【炎の飛龍 藤波辰爾の軌跡 一心己道(36)】椎間板ヘルニアによる長期欠場中の1989~90年くらいの間、新日本プロレスを外から見ていて気になったのは所帯が大きくなりすぎていたことだった。欠場している人間は、このまま居場所がなくなってしまうんじゃないかと不安になってしまう。その一方で力があってもメインイベントには抜てきされないレスラーたちもどうしても出てきてしまう。
そんな中、付き合いのある相撲関係者と話をしている時に、部屋別制度をプロレスに取り入れたらどうなのかなと思うようになった。新日本の中で部屋をつくって、それぞれが独立した興行を行えば選手の活躍の場が増える。部屋を維持するためにそれぞれスポンサーを探して、興行の利益を会社に還元すれば新日本プロレスのためにもなるし、シリーズでは部屋同士の対抗戦をやればより盛り上がるんじゃないかと思うようになった。
新日本プロレスに弓を引くつもりなんて一切なかったし、全体の和を乱す気持ちもなかったが、社長の坂口征二さんと現場責任者の長州力から難色を示された。それでも横浜アリーナでの復帰前の記者会見でこの構想を披露し、新ユニット「ドラゴン・ボンバーズ」を結成した。越中詩郎、獣神サンダー・ライガー、飯塚孝之(飯塚高史)、ブラック・キャットらが賛同してくれた。
ドラゴン・ボンバーズは独立した存在を目指したものの、うまく機能することなく自然消滅してしまった。やっぱり前例のないことだったし、プロレスはあくまでも一つの団体の興行で動いているという考えが会社の中にあった。今振り返ると、もっと新日本の中でコミュニケーションを取ればよかったと思うし、最終的に俺自身もどっちつかずのような形になってしまった。ただ、この試みが後の「無我」に生かされていくことになる。
それから欠場期間中にはプロレス界でもいろいろな動きがあった。FMWを筆頭にさまざまな団体が乱立し、90年9月にはメガネスーパーが親会社になったSWSが注目を集めた。豊富な資金で各団体から選手を引き抜き、天龍源一郎らが参加した。欠場中の俺にも声がかかり、ドン荒川を通じて田中八郎社長と東京駅のホテルで会うことになった。もちろん、新日本を離れるつもりはなかったし、その時、先方から具体的な金額提示みたいなものはなかった。
SWSは92年6月に活動停止となり短命に終わった。崩壊直前に田中社長と再びお会いして、団体を立て直したいと誘われたが、お断りさせてもらった。田中社長はプロレスへの理解があった方で、オーナー企業が団体を運営するのが当然のようになった今になって考えると、時代がまだ追いついてなかっただけだったんだと思う。













