【炎の飛龍 藤波辰爾の軌跡 一心己道(37)】復帰戦から2か月後の1990年12月26日静岡県浜松アリーナ大会で長州力の持つIWGPヘビー級王座に挑戦した。テレビマッチということで白羽の矢が立ち、ファンに元気な姿を見せたかったんだけど、内心は不安があった。リングに上がる時は痛み止めの座薬が欠かせなかった。
2015年に腰の手術をするまで20年以上、毎試合座薬を入れていたわけだから生涯で見れば恐ろしい量を使ったと思う。そんな思いをしながらも、リングに上がる以上はレスラーとしての意地があった。腰が回復したことをアピールしようと、ジャパニーズレッグロールクラッチで長州を破って、約1年9か月ぶりにIWGPのベルトを巻いた。
ベルトは91年1月にビッグバン・ベイダーに一度は奪われたものの、3月4日広島サンプラザ大会で奪回。そして3月21日東京ドーム大会で実現したのがNWA世界ヘビー級王者リック・フレアーとのダブルタイトルマッチだ。現場監督の長州は常に俺の体調を気にかけてくれていて「ドーム行ける?」と来たから、俺もノーとは言えないよね。しかも初めてのドームのメインで対戦相手がフレアーという最高のシチュエーション。ジュニアの時から何度も選手権をやってきたし、長州との試合も「名勝負数え唄」と呼ばれてきたけど久しぶりにゾクゾクするものがあった。
フレアーとは米国での修行中に出会い、当時はまだ前座で立場が全然違っていた。でも東京ドームのリングでは気負うものはなかった。試合はグラウンドコブラツイストで3カウントを奪って2冠王者になったんだけど、試合中にNWAルールでは反則のオーバー・ザ・トップルールがあったということでWCWから王座移動が認められないというクレームがついた。結果的にNWAのベルトは没収。5月に米国のフロリダでフレアーと再戦したけど取り返すことはできなかった。
それでも15年3月にWWE殿堂入りを果たした際、俺は元NWA王者として紹介されたので、NWAも、この試合の勝利を認めてくれていたことが証明された。NWAは長い歴史もあるし、相手がフレアーということもあって自分のキャリアの中でも特別な勝利だったし、この試合がなかったらWWE殿堂入りもなかったかもしれない。
フレアーは文字通りの千両役者だったね。メインイベンターというものは、実力はもちろんだけどお客さんを引っ張ってこられるかというのが第一条件。フレアーはそれを体現した「第一人者」と言っていいと思う。日本人で言うと誰かな…タイプは違うけどやっぱりアントニオ猪木さんなのかな。武藤敬司もフレアー的なものをすごくヒントにしていたと思うね。













