【炎の飛龍 藤波辰爾の軌跡 一心己道(33)】1988年8月8日、横浜文化体育館でアントニオ猪木さんとIWGPヘビー級王座の防衛戦を戦い、60分フルタイムドローで防衛に成功した。試合後、猪木さんが俺の腰にベルトを巻いてくれたから本当に驚いた。あの試合後の一連の流れは、つくろうと思ってできるものではないし、目頭を押さえて泣いているファンもいた。
さらに長州力がリングに上がって、猪木さんを、越中詩郎が俺を肩車した。みんなが無意識のうちに動いているような感覚であの光景が出来上がった。一時はファンに見切りをつけられてもおかしくない状況だったけど「新日本プロレスファンで良かった」という声が多く聞こえてきた。
あの試合でレスラーとして一つ階段を上がったのは確かだけど、俺が「新日本のトップに立ったぞ」という気持ちは一切ない。追われる立場になった焦りと同時に猪木さんが背負い続けてきたプレッシャーも分かるようになった。
そんな思い出の詰まったベルトは、89年4月24日の東京ドーム大会を前に返上した。新日本プロレスとして初進出のドームでIWGPの新王者決定トーナメントが行われることになったからだ。大事な大会を成功させるために納得した上での返上だった。
東京ドーム進出については社内でも賛否両論があった。両国国技館を満員にするのがやっとの状況で、ちょっと無謀なんじゃないかっていう声も多かった。特に俺と坂口征二さんは常識派…いや、慎重派だからね。
でも、最終的に猪木さんの決断で新日本プロレスは起死回生を狙った大勝負に出る。プロレス界初となるソ連(現ロシア)出身レスラーのショータ・チョチョシビリをメインに抜てきするなど相変わらず型破りなアイデアで話題を呼び、最終的には5万3800人の観衆を動員。ここがやっぱり俺たちには猪木さんを超えられないところだね。猪木さんは安住の地はない、自分が挑戦を諦めた時には老いていくという考えだから、とにかくマンネリ化を嫌っていた。
それと、この大会を通じて感じたのは新日本プロレスファンのエネルギーだよね。今にして思うとファンも選手と一緒に戦っていたというかね。新日本プロレスがしぼんでいくところを見たくない、もう1回みんなで応援しようという気持ちからなのか、ドーム大会が発表されるとカードも出ていないのにファンがファンを呼び寄せてチケットがどんどん売れる不思議な現象が起きた。
ドーム進出の成功が持つ意味は大きい。東京ドームでの興行はその後、新日本プロレスにとって欠かせないものとなり、今に至るまで続いている。先見の明というか、さすが猪木さんと思える大英断だったと思う。













