【炎の飛龍 藤波辰爾の軌跡 一心己道(34)】1989年はプロレス人生に最大の危機が訪れた。6月22日の長野県佐久市総合体育館で行われたビッグバン・ベイダーとのシングルマッチで腰を負傷し、長期欠場を余儀なくされた。予兆はあった。ヘビー級に転向したといってもそんなに大きな体ではなかったし、当時はベイダーを筆頭に大柄な選手ばかり。アントニオ猪木さんに代わってメインを張っているという意識もあったから無理してしまった。

 直前には猪木さんが社長の座を坂口征二さんに譲り、参院選出馬を表明していた。俺と猪木さんが2人ともいない興行なんてありえないから試合は休めない。当時はコルセットなんてものはなくて自転車のチューブをグルグル巻きにして腰を固定し出場を続けた。だけどついに限界が来て、7月4日の青森大会を最後に欠場となった。

 診断の結果は腰椎の椎間板ヘルニア。腰への負担が積み重なり続けた上に、大型選手の大技をくらっていたから通常の症状じゃなかったんだよね。「安静を保ってください」と言われても、あおむけになってもうつぶせになっても横になっても24時間痛いんだから安静の保ちようがない。

 医師から「手術しても日常生活に戻れるか分からない」と言われ、引退勧告も受けた。でも手術はしたくなかったから何か所も病院を回った。家の中でも物音がするだけで痛みが出て、女房に怒鳴ってしまったこともある。後に聞いたら、当時は東京の家を引き払って大阪の実家に戻ることも頭をよぎったらしい。

 そんな地獄のような日々が続き秋になると、新日本プロレスから「会場でファンに姿を見せてほしい」と話が来た。今の俺になんて非情なことを言うんだという怒りもあったんだけど、心のどこかでまだ自分が必要とされていることにホッとした部分もあった。何回断っても「来てほしい」と言われて、11月3日の後楽園ホール大会に行くことになった。

 スタッフに肩を借りながら会場へとたどり着き、多少でも痛みを紛らわせるために座薬を使ってリングに向かった。本来だったら階段も上れない状態だったんだけど、久々にファンの温かい歓声を聞くと込み上げるものがあって、不思議と自力でリングに上がることができた。

 あいさつして花道を引き揚げる時、俺の前にひざまずいて「ずっと待ってますから完全に治してください」と言ってくれた一人のファンがいた。治る兆しも見えずに絶望していた時期だったからいまだに忘れられないし、あの言葉がなかったら自分を強く保てなかったかもしれない。もしも、そのファンがどこかでこの記事を見て名乗り出てくれたら、会ってお礼を言いたいくらい感謝しているんだ。