【炎の飛龍 藤波辰爾の軌跡 一心己道(35)】1989年6月のビッグバン・ベイダー戦で腰を負傷し、長期欠場。あいさつした後楽園ホールでファンの歓声に後押しされて復帰を目指して治療に専念し、ようやく回復傾向を見せたのは90年の2月ごろからだった。いろいろな治療を試したんだけど、最終的には患部をあまり刺激しない治療に切り替えていた。
4月からは道場での練習も再開し、リングに上がった時には「やっとここに帰ってきたな」と思ったのを覚えている。何とか受け身を取れるようになって、会社から復帰戦を打診されたんだけど、リハビリを兼ねた「エキシビションマッチをやらせてほしい」と自分から提案した。
そして90年9月30日の横浜アリーナ大会で、越中詩郎と5分間の試合に臨んだ。控室には万が一のことがあった時のため、お医者さんにも来てもらっていたけど、何とか動くことができた。やっぱり1年3か月ぶりにお客さんの前で試合ができたのはうれしかった。待ちに待った瞬間だったし、一時は医師から「現役復帰は考えなくていいんじゃないか」とまで言われていたからね。
横浜アリーナはアントニオ猪木さんのデビュー30周年記念大会でもあった。エキシビションとはいえ記念大会に花を添えられてよかったなという思いが強かったね。
正式な復帰戦は10月25日のグリーンドーム前橋大会で組まれた。対戦相手には長州力が名乗り出てくれて、俺は越中とのタッグで長州、アニマル浜口組と対戦した。この時の長州は容赦なく腰を攻めてきたのを覚えている。変に気を使うことなく厳しい攻めをしてくれたことで、自分がリングに戻ってこられたんだという実感が湧いた。試合には勝てなかったけど、手応えをつかむことができたので、長州には感謝している。
椎間板ヘルニアによる欠場期間を改めていま振り返ると、苦悩の毎日だった。私生活でもつらい思いをしていたし、新聞なんかでプロレス界の動きを見ても気持ちばかりが焦っていた。ライバルだった長州が現場責任者でみんなを引っ張っていくために頑張っていたんだけど、休んでいる自分の居場所がどんどんなくなってしまうんじゃないかという葛藤がすごかった。本当に地獄の日々だった。
約1年4か月におよぶ長期欠場からの復帰にあたり、名前を「辰巳」から「辰爾」に変えた。当時はワラをもつかむ思いだから、名前の字画を鑑定してもらったりもしていて「ケガを避けられるように」という助言を受けたので改名した。
その一方で欠場している期間、俺の頭の中には新日本プロレスを活性化させるための新しい構想が浮かんでいた。それが「ドラゴン・ボンバーズ」だった――。












