【プロレス蔵出し写真館】〝過激な仕掛け人〟と称された新間寿さんが21日に死去した(享年90)。

 1972年(昭和47年)の新日本プロレス創設時からアントニオ猪木を支え、83年(昭和58年)8月に起こった内部クーデターによって退社に追い込まれたが、〝猪木の片腕〟として数々のビッグイベントを実現させた。

 さて、83年6月2日、蔵前国技館で猪木はハルク・ホーガンとIWGP決勝戦で対決する。IWGP構想から3年の年月がたっていた。試合は、ホーガンのエアプレンスピンの体勢から両者場外に転落。立ち上がった猪木の背後からホーガンがアックスボンバーを見舞う。鉄柱に激突する猪木。

 先にリングに戻ったホーガンは、ふらふらとエプロンに上がった猪木にロープの反動を利したアックスボンバーを叩き込んだ。猪木が場外に吹っ飛ぶ。床に頭を打ったのかダウンして起き上がれない。場外カウントが進み、セコンドの坂口征二らがリングに押し上げたものの、猪木の意識はなくKO負けの裁定が下った。猪木の優勝を願っていた新間さんの狼狽ぶりは顕著だった。

 猪木の舌が丸まっているのを見た坂口は〝窒息〟を懸念して木村健吾(後の健悟)に命じ、舌を引っ張り出した。猪木は舌を出したまま、起き上がることはなかった。猪木は救急車で東京医大病院へ搬送された。猪木の〝舌出し失神事件〟として物議を醸し、41年たってもいまだに話題に上る〝伝説〟の一戦だ。

 ところで、猪木が退院したのは翌日の3日。倍賞美津子夫人も見つめる中、シーツをかけられ、若手レスラーによってストレッチャーで運ばれ玄関先に待たせていたリムジンの後部座席に乗せられた。

 なぜシーツがかけられていたのか? 当時は取り立てて話題にもならなかったのだが、後年、とんでもない事実が判明する。猪木は美津子夫人とともに弟・啓介氏の運転で、入院した日の深夜(日付が変わった3日)2時に退院したことが明らかになった。

倍賞美津子夫人(右から2人目)、新間さん(中央奥)に見守られ、猪木はシーツをかぶされ後部座席に運ばれた(1983年6月、東京医大病院)
倍賞美津子夫人(右から2人目)、新間さん(中央奥)に見守られ、猪木はシーツをかぶされ後部座席に運ばれた(1983年6月、東京医大病院)

 では、シーツをかけられて運ばれたレスラーはだれだったのか。運んだ若手は当時を振り返り、「前田(日明)さんでした」と明かす。「新間さんの命令で、病室で前田さんに布をかぶせた」。

 衝撃のKO負けから5時間後に、「絶対安静」のはずの猪木がひそかに自宅に戻っていたことを悟られぬよう工作したのだろう。

 10日、新日本プロレスの南青山の事務所に1週間ぶりに公の場に姿を見せた猪木の姿があった。

 猪木は「まだ少し頭が痛い。話をすると舌がもつれることもある。目も少しおかしい。場外でアックスボンバーを食ってから後のことはわからない。(意識を取り戻したのは)病院に運ばれる救急車の中で気がついた。だれかわからないが『大丈夫ですよ、大丈夫ですよ』と大声をあげていた」と語った。

 新間さんは神妙な表情でそれを聞いていた(写真)。

 新間さんは後年「(IWGPの敗戦は)猪木さんに余計な〝知恵〟をつけたやつがいた」と断言した。「『あんたが負けることによってニュースは全世界に広まるから、ここで負けるべきだ。そういう人の思いもよらないことをしたほうがいいですよ』と」。そう言って憤る。

「坂口さんも怒ってね。自分の机の上に『人間不信』と書いて、会社出てこないでハワイ行っちゃった。1週間ぐらい帰ってこなかった。坂口さんは真面目な人だったから」(新間さん)

 新間さんが言う、猪木に進言したのは今年の2月10日に亡くなった永島勝司さんのこと。当時は東スポで新日プロ担当だった。
 
 永島さんは巡業先で猪木と酒を酌み交わし、様々なアイデアを語り合ったという。生前、「オレがアイデアを出したって、猪木がすぐ実行するわけじゃない。しばらくして〝アレッ、オレが以前猪木に話したことだよな〟と思うときがあった。あのIWGPも『一般紙、チョーマイヨミ(朝日、毎日、読売)に載るには、普通に優勝したんじゃ無理だ』と猪木と話した」と教えてくれた。

 世間のプロレスに対する評価に、憤慨していた猪木の頭の片隅に、永島さんのアドバイスがあったのかどうかは定かではないが、一般紙の社会面に〝事故〟として報じられた。

 新間さんがクーデターで新日プロを追われてから、永島さんは新日プロに入社して猪木の側近となった。最終的に2人とも猪木と袂を分かったが、優秀なブレーンだったことは間違いないだろう。

 新間さんの口癖は「6メーター40(センチ)のリングの中(の戦い)はレスラーだけのもの。〝神の領域〟」というもの。レスラーに対するリスペクトがあった(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る