【達川光男 人生珍プレー好プレー(29)】1977年のドラフト会議では地元の盈進高から1位指名された田辺繁文投手をはじめ、私も含めた6選手が入団しました。それから1か月後のことです。南海から江夏豊さんがカープへ加入することになったのは。
江夏さんは抑え投手として再起させてくれた恩人でもある兼任監督の野村克也さんが解任されたことでオフにトレード志願。現役晩年を南海で過ごし、コーチも務めた古葉竹識監督と野村さんの関係もあり、金銭トレードで新天地にやってきたのです。
言うなれば同期入団なんですが、すでに169勝を挙げられ、77年に4勝2敗19セーブで初の最優秀救援投手となった偉大な左腕から見れば、私などは鼻くそみたいなもの。1年目の春季キャンプでは「おまえじゃ調整にならん」とブルペンでも受けさせてもらえなかったほどです。
そんな超大物同期との距離が縮まったのは、かつて広島市西区の三篠にあった三省寮で“お世話係”をさせていただいたことも大きかったのではないでしょうか。住む家が見つかるまでの間、江夏さんは寮生活をされていたのです。
身の回りのお世話をするのは新人の務めで、同期ながら社会人野球の三菱重工広島からの入団でマイカーを持っていた高木真一さんが送り迎えを担当。私は朝起こすところから始まって掃除や洗濯、後片づけをさせてもらっていました。
江夏さんはお酒を一滴も飲まないのですが、大の甘党でね。ナイターから帰ってきて「ケーキを買ってきてくれ」と頼まれたときには往生しました。今なら24時間営業のコンビニがあってスイーツも充実していますが、当時はそんな便利な店もありません。寮近くの横川のケーキ屋さんに「お休みのところ申し訳ありませんが、ケーキをください」と無理なお願いをしたこともありました。いつ江夏さんに「ケーキが食べたい」と言われるか分からないから、それ以降はケーキを買い置きして寮の冷蔵庫にストックしておくようにしましたよ。
そんなある日のことでした。江夏さんから金言を授かったのは。「とにかくキャッチングを磨いておけ。キャッチャーで一番大事なのはボールをしっかり受けることや。リードやスローイング、インサイドワークなんちゅうのは後から覚えればいい」と。
私は目を輝かせ、すかさず「キャッチングがうまくなるには、どうしたらええですか?」と尋ねました。すると江夏さんから「そりゃあ、ひたすらピッチャーの球を受けることや。せやな、1か月で10万球ぐらい捕れ」と真顔で言われてしまいました。
1か月を30日として、10万球の“ノルマ”をクリアするには1日3333球以上を捕らなくてはなりません。さすがに物理的にも無理ですが、それぐらいの気概を持って精進せい――というメッセージだと受け止めました。
1年目の開幕を二軍で迎え、昼は二軍戦に出場し、夜は人手の足りていなかった一軍でブルペン捕手としてさまざまな投手のボールを受け続けました。それでも江夏さんとバッテリーを組ませてもらったのは2年目になってから。ペーペーの捕手が首脳陣や投手の信頼を勝ち得るのには時間がかかるのです。












