【達川光男 人生珍プレー好プレー(27)】1977年11月22日に東京・飯田橋のホテルグランドパレスで行われたドラフト会議で地元球団の広島東洋カープから4位指名を受けた私は、契約金2000万円、年俸240万円で入団しました。
同年に正捕手を務めていたのが118試合に出場した水沼四郎さんで、2番手は45試合出場の道原裕幸さん。どちらも75年の初Vメンバーで、2人を抜いてレギュラーになるのは簡単ではありません。そんな中で最初にプロの厳しさと目指すべき方向性を示してくれたのが県立広島商高、通称「広商」の大先輩でもある内野手の三村敏之さんでした。
宮崎・日南市での春季キャンプ中に「ちょっと来い」と呼ばれたときのことです。プロ1年生の私が泊まっていた城戸荘旅館から徒歩で一軍の日南ホテルを訪ねると、最初に野球道具の心配をしていただきました。
当時、チームからの支給品はアンダーシャツ5枚にソックス10足、ストッキング1足とベルト1本、ユニホームがホーム用とビジター用が各2着と限られていて、足りなくなったら自費で購入しなければなりませんでした。メーカーとのアドバイザリー契約のない若手は、もちろんバットも自腹です。
本来は同室だった同じく広商の先輩である大下剛史さんが盲腸の手術で出遅れていて、広々と使っていた2人部屋には50本ほどのバットがあり、ウエア類と合わせて「これ、やるわ」といただきました。
そのあとです。三村さんに「ちょっと振ってみい」と言われ、いただいたバットを手に何スイングかすると、衝撃的な指摘を受けました。ため息まじりに「なんでプロに入ってきた」と。
広商、東洋大で野球に打ち込み、夢や希望、それなりの自信を持ってプロの世界に飛び込んできた私は丸太で後頭部を殴られたぐらいのショックを受けました。
三村さんの座右の銘でもあったのが、旧日本海軍の山本五十六大将の名言として有名な「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」。代わってバットを手にした三村さんは同じように何度かスイングしてくれたのですが、もちろんのこと私とは比べものにならない。本物のプロのスイングというものを目の当たりにした私は「これがプロか」と驚きを通り越して寂しい気持ちになってしまいました。
この先、プロの世界でやっていけるのか――。意気消沈の私に、三村さんは優しくフォローもしてくれました。「ケガせんと、キャンプを乗り越えろよ」と。同時にカープを常勝軍団にした古葉竹識監督のもとで、レギュラーとして生き抜くための方向性も示していただきました。












