【達川光男 人生珍プレー好プレー(24)】1972年に23歳の若さで東洋大の監督に就任し、69歳で2017年に退任されるまで、高橋昭雄監督は数々の金字塔を打ち立てられました。東都大学リーグ1部で歴代最多の542勝。私が3年生だった76年秋の初Vから1部優勝は通算18回を数え、全日本大学選手権4度、明治神宮大会も2度制覇されました。

 そんな名将の門下生でプロ入り1号となったのが私です。高橋監督の教えを受けた先輩では落合博満さん(中退)や松沼博久さん、市村則紀さん、小嶋正宣さんがプロ入りしていますが、いずれも社会人野球を経てからだったため、77年のドラフト会議でカープに指名された私が一番乗りになったのです。

 高橋監督のもとで鍛え上げられ、初優勝にも貢献した私はプロのスカウトからも注目される選手になっていました。これは1学年下のエース、松沼雅之のおかげでもあるんですけどね。兄の博久さんと入れ替わりで入学してきて、パワーはあってコントロールもめちゃくちゃいい。クイック投法やけん制もうまくて、お兄さん以上に完成度が高かった。

 松沼弟は1年春に開幕カードの亜細亜大との2回戦で、いきなり4安打完封デビュー。連投となった3回戦も8回2失点で勝利投手となって2日で2勝を挙げました。初優勝した76年秋には日本大1回戦で4回に失点したのを最後に、先発では4試合連続完封と向かうところ敵なし。駒沢大1回戦で完封目前の9回に失点するまでの56回2/3連続無失点は半世紀近くたった今も破られていない大記録です。

 そんな好投手を目当てに集まったスカウトの間で、バッテリーを組んでいた捕手の私も耳目を集めることになりました。しかし、その道が閉ざされかねない“事件”が起きてしまったのです。4年生となって迎えた77年春の専修大との開幕戦。正確に言うと、試合に向かう前のことでした。合宿所の洗面所でコンタクトレンズを入れようとしたときに、誤って一つ流してしまったのです。

 今でこそ使い捨ても普及して便利になりましたが、私の使っていたハードコンタクトレンズは高価で、スペアも持っていませんでした。仕方なく片方しか見えない状態で試合に臨んだのですが、走者を三塁に置いた場面で痛恨のパスボール。松沼にとっても連盟タイ記録の9連勝がかかった大事な試合でしたが、8回途中まで投げて10安打4失点で負け投手となってしまいました。

 自分でもふがいないと思っていたプレーぶりはプロのスカウトにもバレバレだったようです。神宮球場の正面入り口付近にいたカープの木庭教さんには「おいタツ、今日は精彩なかったな」と指摘されてしまいました。そしてこれが“運命のいたずら”の始まりだったのです。