【達川光男 人生珍プレー好プレー(19)】1973年夏、2年生の“造反”による危機を脱した県立広島商、通称「広商」は埼玉・川越工との準決勝まで駒を進めました。16年ぶりの全国制覇まであと2勝。そんな大事な試合で、先発のエース佃正樹が立ち上がりにとんでもないボールを投げてきました。緊張で制球を乱したのではなく、明らかにわざと。一体どういうことなのかと戸惑っていると、佃のほうから近づいてきて、こう言われました。

「タツ、ボールを呼んでくれ。おまえの構えたところに投げたいんじゃ」

 前にも書きましたが、捕手としてのキャリアの浅かった私は一球一球、ベンチの迫田穆成(よしあき)監督からの指示に従ってサインを出していました。そのため、マウンドの佃に孤独感を味わわせてしまっていたのです。

 彼とは不仲だったわけではないのですが、仲が良かったわけでもない。アイドル的な人気を誇ってファンレターも多かったけど、普段から黙々と練習するタイプでした。おしゃべりで、ひと言多い私とは対照的にね。

 バッテリーは夫婦にも例えられるポジションです。女房役が正面から向き合わずにいたら、投手はマウンドで独りぼっちになってしまう。私は孤高のエースから捕手として大事なことを気づかされました。「投手をマウンドで孤独にしてはいけない」。これはプロになっても心がけていましたね。

 広商では「相手に失礼になる」との理由から勝っても喜びをあらわにすることは良しとされず、佃とは試合に勝っても握手やハグをしたことがありませんでした。川越工を5安打完封リレーしても、静岡を下して全国制覇してもね。卒業後も東洋大を経てカープ入りした私と、法政大、社会人野球の三菱重工広島でプレーしたのちに同社で活躍した佃とは疎遠になっていました。

 再会したのは98年4月です。珍しく連絡してきたと思ったら「俺がつくった橋をおまえに見てほしい」と明石海峡大橋の開通式に招いてくれたのです。サラリーマンとして心血を注いできた一大プロジェクトを成し遂げ、誇らしい気持ちもあったのでしょう。私もわがことのようにうれしく、過去に経験したことのないような感動を覚えました。

 その佃は2007年8月に52歳の若さで他界してしまいました。私は19年夏の甲子園大会決勝で始球式をさせてもらいましたが、本来なら73年夏のV左腕で、同年春の選抜大会で「怪物」と称された栃木・作新学院の江川卓に投げ勝った佃こそが適役だったと思っています。あの日、石川・星稜のエース奥川恭伸(現ヤクルト)の前で投げ込んだ渾身のストレートは佃への思いも込めた一球だったのです。