【達川光男 人生珍プレー好プレー(15)】1973年春の選抜大会決勝。県立広島商、通称「広商」は当時28歳の渡辺元(現元智)監督率いる初出場の神奈川・横浜との大一番に臨みました。試合前にはアルプス席で始業式までしましてね。応援に駆けつけた生徒200人の前で西本篤武校長がハンドマイク片手にスピーチしていましたよ。45回目の選抜大会で初めてのことだったんじゃないでしょうか。

 9回まで両チーム無得点の息詰まる投手戦となった試合が動いたのは延長10回でした。一死二、三塁からスクイズを警戒してエースの佃正樹にウエストさせたボールを私が捕り損ねてしまったんです。すると今度は横浜にミスが出た。二死三塁から左翼手の冨田毅が平凡な飛球をポロリ。記録は安打となりましたが、広商は絶体絶命のピンチで九死に一生を得たのです。

 しかし、この日の勝利の女神は気まぐれで、11回に二死一塁から佃が冨田に投じた内角へのカーブが高めに浮き、打球は左翼ポール際のスタンドへ。「入るな!」「切れろ!」との願いも届かずに2点のリードを許してしまいました。広商最後の攻撃は三者凡退。あと一歩のところで優勝を逃しました。

 もちろん悔しさはありました。でも、不思議なことに「これでええんじゃ」と思う自分もいたのです。準決勝で江川卓を擁する栃木・作新学院には勝ちましたけど、江川を打ち崩したわけではない。帽子のつばにしたためた「全国制覇」を成し遂げるためにも、これが終わりではなく新たなスタートなんだという気持ちになったのです。

 よりその思いを強くしてくれたのが、野球部部長の畠山圭司先生の言葉でした。記念に甲子園の土を持って帰ろうとしたときのことです。「おまえら夏は甲子園に来ないのか! 土が欲しかったら夏に来て持って帰れ」と。本当は欲しかったんですけどね。親戚や友達からも「お土産」として甲子園の土を頼まれていたので。

 ついでに言うと、夏に全国制覇した際も畠山先生には土の持ち帰りを禁じられました。「甲子園は広商のホームグラウンドじゃ」と。その無念があったのでしょうね。プロに入って初めて甲子園球場を訪れた際には、スパイクについた芝をかき集めて記念に持ち帰りましたよ。

 勝って喜ぶことも大事ですが、負けて学ぶことも多い。最上級生となった私は高いレベルの野球に触れたことで、それまで以上に野球に対して真剣に取り組むようになりました。

「やらされる練習」では上達にも限界がある。私にとって73年春の選抜大会決勝での負けは、その後の野球人生にもつながる重要な転機となったのです。