【達川光男 人生珍プレー好プレー(16)】1973年春の選抜大会決勝で神奈川・横浜に敗れ、夏に向けて再出発した私は、それまで以上に日々の練習に熱が入りました。「やらされる練習」だけでは上に行けない。そう気づかせてくれたのが、同年の選抜大会準決勝で対戦した栃木・作新学院のエースで「怪物」と称された江川卓です。

 夏の大会で全国制覇するためだけでなく、その先も本気でプロを目指すなら、同学年の江川とはずっと戦い続けなければならない。「江川を打つには何をすべきか」。それまではチームの練習がハードで「サボらにゃ体がもたん」と手を抜くことばかり考えていましたが、そんな姿勢ではライバルに勝てない。私はチームの練習とは別に、重い鉄の棒とマスコットバットで1日500スイングすることを自らに課しました。

 自らの意思で、こつこつと続けた練習は身になるものです。3か月もたつと、練習試合で打球が外野の頭を越えるようになりました。さらに言うと、同年夏の甲子園大会では公式戦で唯一となるホームランまで打つことができたんです。

 準々決勝で対戦した高知商の鹿取義隆からね。内角高めの真っすぐを叩いたら、左翼のラッキーゾーンまで飛んでいってくれました。試合後の取材に「打てるような気がしていました」とコメントしていたぐらいですから、よほど気分が良かったんでしょうね。

 ついでに言うと、高校野球ではオイルショックによる物価の高騰や資源保護の観点から74年に金属バットが解禁されました。同年春の選抜大会が木製バットのみを使用した最後で、1本だけ出た本塁打は東京・日大三の豊田誠佑が記録したランニングホームランのみ。つまり、木製バットを使って甲子園大会で柵越えを放ったのは私が最後なんです。

 ただ、この話にはオチがあって、巨人で活躍した2学年下の篠塚和典によると「木製バットで最後に甲子園でホームランを打ったのは僕」だと。74年夏は木製バットか金属バットのどちらを使うか選手が選べて、すでにプロ入りを意識していた千葉・銚子商2年の篠塚は甲子園で放った2本塁打とも木製バットだったというのです。

 話はだいぶ脱線してしまいましたが、県立広島商では多くのことを学びました。迫田穆成(よしあき)監督の座右の銘は「創意工夫」で江川対策に編み出された「スクイズ失敗作戦」に代表される「負けない野球」を実践するための訓練は多岐にわたりました。広商伝統の「精神野球」につながる数々の「行」などについても次回以降に書いていきましょうかね。