【達川光男 人生珍プレー好プレー(14)】「怪物」の異名を取った栃木・作新学院のエース江川卓との直接対決となった1973年春の選抜大会準決勝は、1―1のまま後半戦へと突入しました。県立広島商、通称「広商」は全員が打席の一番前に立ち、威力のある高めのボールを捨てて外角低めだけを狙うという作戦を徹底。ファウルで粘り、2回には先頭から3者連続で四球を奪うなど5回を終えて江川に108球を投げさせていました。
  
 勝負を分けたのは8回裏の攻撃です。広商は主将の金光興二が一死から四球で出塁し、すかさず二盗に成功。楠原基の内野安打で一、二塁とし、二死後にベンチの迫田穆成(よしあき)監督からの指示でダブルスチールを仕掛けると、捕手の小倉(現亀岡)偉民が三塁手の頭を1メートルほど越える悪送球。金光が一気に本塁を陥れ、これが決勝点になりました。

 前年から江川対策として訓練を重ねてきた「スクイズ失敗作戦」が発動されることはありませんでしたが、8四球にラッキーなポテンヒットと内野安打、これに相手のミスが絡んで江川の連続無失点記録を139イニングで止め、広商は晴れて決勝に駒を進めました。

 改めて当時の新聞を見返してみたら、8回2安打11奪三振2失点で負け投手となった江川は試合後の取材に「打者がベースにかぶさってくるのは気にならなかったが、気力には負けた。向こうのファイトが僕より上だった」とコメントしていました。

 文面だけを見ると素直に負けを認めているように思われますが、のちに本人から聞いたところによると、降雨順延となった本番前日に宿舎で30分ほどうたた寝した際に首を寝違えてしまい、当日はマウンドで一塁側を向くことができなかったそうです。「今だから言うけど、あの日は50~60%ぐらいの力でしか投げられなかったんだよ」とも言っていました。確かに万全の状態だったら、広商は勝てんかったかもしれませんね。

 ちなみに江川がこの大会の4試合で積み重ねた60奪三振は半世紀以上を経た現在でも、大会通算最多奪取三振記録としてさんぜんと輝いています。まさに「怪物」でした。江川との初対決で私は三振、四球、犠打で1打数無安打。四球で出塁した5回に佃正樹のラッキーなヒットで同点のホームを踏みましたが、打席では「本物」とのレベルの違いを痛感させられました。

 広島市立牛田小学校の卒業文集に書いた将来の夢は「プロ野球選手になること」。この時点でプロを意識していたわけではありませんが、上を目指すのであれば「打倒江川」に終わりはない。神奈川・横浜との決勝を経て、その思いはより強くなりました。