【達川光男 人生珍プレー好プレー(20)】紆余曲折を経てたどり着いた1973年夏の甲子園大会決勝。静岡との大一番は劇的な幕切れとなりました。2―2で迎えた9回裏。県立広島商、通称「広商」は楠原基が内野安打で出塁し、次打者は2年生の町田昌照。ここで私は迫田穆成(よしあき)監督に呼ばれ「おまえで勝負だ」と告げられました。

 町田が犠打を決めれば一打サヨナラの好機で自分に打席が回ってくる。しかし、町田はバントをすることなくカウント3ボール1ストライクに。ネクストバッターズサークルの私は心の中で「早よやれ!」と念じていましたが、結果は四球。打席に向かう私は、迫田監督に「分かっとるの?」とだけ言われました。

 徹底的に練習を積んできた送りバントにプレッシャーなどありません。しっかりと一塁側に転がして一死二、三塁。ひと仕事終えた私が監督の後ろで水を飲んでいると、川本幸生が敬遠で歩かされ、満塁となったところで途中出場の大利裕二がスクイズを決めました。史上2度目というサヨナラV。広商は迫田監督が選手だった57年以来となる全国制覇を成し遂げました。

 涙は出ませんでした。率直な感想は「はあ、負けなくて良かった」。迫田監督も「選手たちの力で勝ったんだ。俺が胴上げされたら監督で勝ったように思われる」との理由から胴上げを拒否。準優勝に終わった春の選抜大会と同様に甲子園の土を記念に持って帰ることも野球部部長の畠山圭司先生に「甲子園は広商のホームグラウンドじゃ。ホームグラウンドの土を持って帰る必要はない」と禁じられ、最後まで謙虚でいることを求められました。

 全国制覇から2日後の8月24日、特急「しおじ2号」で広島に帰ると、雨にもかかわらず駅前広場や沿道には2万人が詰めかけ、深紅の大優勝旗を手にオープンカーに乗って臨んだ優勝パレードでは16万人から祝福を受けました。でも、私の野球人生はこれで終わりではありません。夢には続きがありました。広島市立牛田小学校の卒業文集にも書いた「プロ野球選手になること」です。

 ただ、この時点でプロから声がかかることはありませんでした。もし、地元のカープから話があったら下位指名でもドラフト外でも行くつもりでいたんですけどね。

 となると、進路は大学進学です。第一希望は法政大でした。まあ、東大や慶応大、早稲田大、立教大はハナから無理だろうと思っていたし、そうなると東京六大学リーグなら法大か明治大という選択になりますよね。

 でも、広商からはエースの佃正樹に主将の金光興二、楠原基が法大に決まっていて、枠は埋まっているという。それならばと大城登と明大のセレクションを受けることになったのですが、ここで私たちは思いもよらない“地雷”を踏んでしまったのです。