【達川光男 人生珍プレー好プレー(21)】高校卒業後の進路に進学を考えていた私は、県立広島商の同級生、大城登と明治大野球部のセレクションを受けました。グラウンドには1969年夏の甲子園決勝で三沢のエース太田幸司さんと延長18回に及ぶ死闘で232球を投げ、翌日の再試合にも先発して全国制覇した松山商の井上明さん、同じ69年に選抜大会2回戦でやはり三沢の太田さんと延長15回の投げ合いを演じ、準々決勝では広商に勝った浪商の上田芳央さんがいて、単純に「すごい」と興奮したものです。
1泊2日のセレクションでは大学生に交じってシートノックや打撃練習に参加しました。自慢の強肩もアピールできて、何人かの先輩から「おまえ、明治に来いよ」と言っていただきました。
私たちが予期せぬ“地雷”を踏んでしまったのは2日目です。「御大」島岡吉郎監督から「高校生、もういいぞ」との終了宣言とともに「英語の勉強をするんだぞ」と謎なアドバイスをもらって帰ろうとしたら、マネジャーさんから「広島は遠いから、風呂に入ってから帰れ」と言っていただきました。
山陽新幹線の岡山―博多間が開業したのは75年3月で、私が大学生になってから。「これはありがたい」とすぐに風呂に入ったら、あとから「御大」が入ってきました。島岡監督には入浴中にも「英語の勉強をするんだぞ」とのアドバイスをいただき、変な緊張感もなかったのですが、問題は「御大」より先に入浴していたのを1年生に見られていたことでした。
明大野球部で島岡監督は絶対的な存在です。私たちは言われるがままに入浴しただけですが、そんな理屈は通りません。
「おまえら、オヤジより先に風呂入ったのか! 覚悟して来いよ!!」
ほうほうの体で明大グラウンドをあとにした私は、大城と顔を見合わせて「もう終わったな」と別の覚悟を決めました。実際に大城は明大進学をあきらめ、社会人野球のリッカーに進むことになりました。
第一希望だった法政大には枠の関係で行けず、明大は“地雷”を踏んでアウト。広島に帰ってから相談した野球部部長の畠山圭司先生には「だったら東都大学リーグに行け。駒沢大と亜細亜大、東洋大だったらルートがあるから話をしてみる」と言っていただきましたが、私は「もう、どこでもいいです」と、すっかり後ろ向きになっていました。
亜大には2学年上に広商OBで捕手の谷口顕太郎さんがいて、入っても即レギュラーにはなれそうもない。駒大か東洋大か「好きなほうを選べ」と言われ、決断しかねていたら「東洋に行け」という話になりました。
それにしても人生とは不思議なものです。もし東洋大で高橋(当時は佐藤)昭雄監督と出会っていなければプロ野球選手になれたか分からないのですから。












