【達川光男 人生珍プレー好プレー(22)】1974年春、東洋大に進学した私は夢と希望に胸を膨らませていました。小学生のころからの夢だった「プロ野球選手になること」に燃えていただけでなく、ダメだった場合のことも考えて教職課程を受けることにしてね。最終的に4単位足りなくて教職員免許を取ることはできませんでしたけど、けっこうマジメに勉強もしたんですよ。現役引退後に足りなかった単位を取りなおそうと思って大学に連絡したら「卒業から15年もたっているのでダメですね」と言われたときはショックでした。

 話を本題に戻しましょう。私は1年春のリーグ戦からベンチ入りさせてもらったのですが、守備固めと代打で3試合に出場しただけ。当時のエースで、プロ入り後に西武黄金期を支えた「アニヤン」こと松沼博久さんにはブルペンでも受けさせてもらえませんでした。

 すぐにレギュラーになれるという甘い考えもあったのでしょう。チームメートからは「甲子園で優勝したからって、いい気になっているから使ってもらえないんだ」なんて言われましてね。こんな私でもホームシックになったほどです。

 転機となったのは、社会人・電電関東(現NTT東日本)とのオープン戦でホームランを打ったこと。打力と肩の強さ、捕ってからの速さを買われ、秋のリーグ戦からレギュラーとして試合に出してもらえるようになりました。1学年上で捕手の田中正近さんは強肩だけどスローイングが大きく、力で抑えられるエースの松沼さんがクイック投法やけん制に興味がなかったことも追い風となったようです。

 でも、松沼さんの投球は1年生捕手にとってレベルが高すぎました。スピードガンがなかった時代で正確には分かりませんが、おそらくストレートは150キロぐらい出ていたでしょう。カーブはホームベースの端から端まで曲がるし、おまけにシュートはシンカー気味にストンと落ちる。今風に言うなら、アンダースローからエグい球を投げていました。

 私が“やらかし”てしまったのは日大戦です。相手先発は私の1学年上で、すでに大エースの風格すら漂っていた佐藤義則さん。のちに阪急、オリックスで44歳まで現役として活躍した「ヨシさん」です。

 プロでも好勝負を繰り広げることになる松沼さんとヨシさんの投げ合いはいつでも息詰まる投手戦となり、その日も序盤を終えて0―0でした。試合が動いたのは5回。内野手の失策から一死三塁のピンチを招き、松沼さんが左打者に投じたシュートを私が捕り損ね、先制点を許してしまったのです。松沼さんにはマウンドから「ちゃんと捕らんか!」と怒鳴りあげられ、私は涙目で「すいません」と謝るしかありませんでした。

 そのまま0―1で試合にも負け、東洋大は74年秋のリーグ戦を制した中央大に勝ち点4で並びながら勝率差で2位に。松沼さんは有終の美を飾れずに社会人野球の東京ガスへと進みました。

 二度とこんなことがあってはいけない。私は猛省して、ブルペンでも1球1球を一生懸命に捕るようになりました。キャッチングが上手になっていったのは、痛恨のパスボールにカミナリを落としてくれた松沼さんのおかげといっても過言ではありません。