【達川光男 人生珍プレー好プレー(23)】野球人生を振り返ってつくづく思うのは、人との縁に恵まれたということです。プロで15年も捕手としてプレーし、今もこうして野球界に携わることができているのも、多くの優れた投手と巡り合うことができたからと思っています。

 2つ年上の捕手、若菜嘉晴さんにもよく言われたもんです。「おまえはいいピッチャーと組めていいよな。俺よりヘタなのにベストナインやゴールデン・グラブ賞にも選ばれるんだから」と。まったくその通りで返す言葉もございません。

 指導者にも恵まれました。県立広島商高時代の迫田穆成(よしあき)監督の教えはすでに書いてきたので割愛しますが、小学校時代からの夢だったプロ野球選手になれたのは、東洋大の高橋昭雄監督がそのように導いてくださったからです。

 1972年に23歳の若さで就任され、私の入学時には旧姓の佐藤さんだった監督から最初に聞かれたのは「きみは将来、どんな夢を持っているんだ?」。私が「プロ野球選手になりたいです」と答えると、常に「プロ」を念頭に置いた指導をしてくださいました。

 1年生のころから“大人扱い”していただき、ミスをしてポカリとやられることもない。4年生になると埼玉・鶴ヶ島市の自宅にもしばしば招かれ、奥さんの手料理を振る舞っていただいたものです。

 プロを目指すなら打撃を磨かなければならないと、練習では1日1本、バックスクリーンに放り込むまでフリー打撃をさせてもらいました。広商のフリー打撃が一人5分の2回だったのとは対照的で、プロ並みに思う存分打てたのはありがたかったです。なかなかバックスクリーン弾が出ないと、こっそり飛びがいいニューボールを出してくれてね。

 そんな高橋監督に一度だけ、すごいけんまくで怒られたことがありました。ある試合での1点を追う無死一、二塁の場面でベンチからのサインは「打て」。私はそれを無視して送りバントを決め、一打勝ち越しの好機を演出してベンチもさぞや盛り上がっているだろうと思ったら真逆の事態になっていたのです。

 凍りついたベンチで顔を真っ赤にした高橋監督からこう言われました。

「きみはプロに行きたいんじゃないのか! 送ってどうするんだ! ホームランなら3点入るんだよ!」。勝手に送りバントをした自分を恥じ、この人に付いていこうとの思いを新たにした瞬間でもありました。

 1年生だった74年からの春秋5季で2位が3度と涙をのんできた東洋大は、私が3年生となった76年秋のリーグ戦で加盟36年目にして初優勝することができました。歓喜の輪の中で高橋監督にかけられた言葉は半世紀近くたった今でも鮮明に覚えています。「きみ、ありがとう」。それだけで十分でした。

 高橋監督による熱血指導のおかげで私はプロへと進むのですが、その前に“らしいハプニング”もありました。コンタクトレンズを巡るエピソードです。 

 

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