【達川光男 人生珍プレー好プレー(26)】かつては目が悪い、メガネをしているという理由から評価を落とされ、悔しい思いをした選手が多くいました。有名なところではヤクルトで活躍し、晩年には兼任監督としてもプレーした古田敦也がそうですね。

 立命館大時代には関西学生野球リーグで4度のベストナインに輝き、大学ナンバーワン捕手として日米大学野球では日本代表にも選ばれたのに、ドラフトではまさかの指名漏れ。原因は「メガネをした捕手は…」と敬遠されたからだと言われています。彼はその悔しさをバネに社会人野球のトヨタ自動車からプロ入りし、球史に残る偉大な捕手となりましたが、大学4年のときの屈辱は相当なものだったはずです。

 東洋大4年生となった1977年春に、ひょんなことからコンタクトレンズをしていることがバレた私も似たような経験をしました。注目してくれていた全12球団のスカウトの間で「達川は目が悪い」との情報が一気に広まり、ほとんどが“ベタ降り”する事態となったのです。高橋昭雄監督からも「スカウトが来なくなった」と告げられました。

 卒業後の進路はプロ一本と考えていましたが、そうは言っていられません。高橋監督にも「社会人も考えておけ」とアドバイスされました。地元広島の山本鋼材(現ワイテック)と埼玉・和光の本田技研(現Honda硬式野球部)からいいお話をいただいていましたが、運命とは不思議なものです。目が悪いことを知って多くの球団が私の指名を見送ったことで、結果として幼少期からあこがれていた地元球団に入れたのですから。

 のちに担当スカウトの木庭教さんから聞いた話によると、11月22日のドラフト会議ではこんなドラマもあったそうです。カープは5位で私を指名する方針でしたが、会場で隣のテーブルだった大洋のスカウトから4位指名を前に「おまえのところは達川に行かんのか? だったらウチが4位で指名するぞ」と言われ、急きょ指名順位が繰り上がった。これが大洋の陽動作戦だったのか真相は分かりませんが、私の野球人生にとっては吉と出ました。

 法政大の江川卓をどこが指名するのか注目を集めたドラフト会議当日、テレビ中継のあった2位までに名前を呼ばれることもなく、私は下級生に「もし指名があったら呼びに来てくれ」と頼み、合宿所近くにあった鶴ケ島会館へパチンコをしに行きました。するとしばらくして1年生が来て、台を前に銀玉を目で追っていた私に「広島が4位で指名しました」と。天にも昇る気分でしたが、はしゃいでいると思われたくなくて「ほうか。いま出よるけえ、これが終わったら帰る」とクールなふりをしたりしてね。

 高橋監督も教え子で初となるプロ野球選手の誕生に「おめでとう。すぐに広島へ帰って親御さんと相談してきなさい」と声を弾ませ、父親も「早ようカープへ行け。すぐに決めんと『やっぱりいらん』と言われるかもしれん」と大喜びでした。こうしてプロ野球選手・達川光男が誕生したのです。