【平成球界裏面史 近鉄編41】平成27年(2015年)には、近鉄の坂口智隆から完全にオリックスバファローズの坂口となっていた。合併球団がスタートして11年。もう近鉄出身のオリックス選手は坂口だけだった。
平成24年に右肩の大怪我を負ってから3年。何とか故障後の状態を受け入れ、新しい打撃フォームを固めようと取り組むようになっていた。
3月27日の開幕戦、西武戦(西武ドーム)ではスタメンを外れたが翌28日は8番・中堅で先発。そこからは途中出場も多く、かつての1番・中堅固定の坂口ではなくなっていた。
5月に入ると出場選手登録を抹消された。それでも腐らず、ウエスタン・リーグを戦場に真っ黒に日焼けしてプレーした。真夏の8月、一軍昇格の機会もあった。だが、右肘の故障で見送られるという不運もあった。
気丈にプレーを続けていたが、時に弱音を吐くこともあった。「ほんまに俺はチームに必要なんやろか」。野球選手は敏感だ。相変わらずチームメートからの人望は厚かった。だが、球団フロントからの評価は実に厳しいものだった。
9月上旬、神戸にある二軍施設での練習中、球団から呼び出された。球団幹部から、来季の大幅な減俸を打診された。当時の年俸は7500万円。そこから野球協約の減額制限を超える一軍最低年俸に迫る提示額だった。
球団からはこれまでの功績を評価された。近鉄から合併球団オリックスバファローズの一員となり主力に成長。4年連続ゴールデングラブ賞、最多安打など実績を讃えられはした。
だが、当時の瀬戸山球団本部長は「(球団発展の)功労者とは認めるが、それだけでお金は出せない」と手厳しかった。功労者に対しての半ば戦力外のような扱いに批判の声もあったが、球団は世代交代の方針を推し進めた。
15年のオリックスは優勝候補に挙げられながら5位に低迷した。そういった背景もありオフには血の入れ替えを断行した。瀬戸山球団本部長は「世代交代の時期。チームのバランスも考えないと。若い選手たちには今まで以上に危機感を持ってレベルアップしてもらわないと」と厳しい姿勢を示した。
実際、15年オフには谷佳知や平野恵一が引退。坂口や馬原孝浩、井川慶、鉄平といったベテランを含む17選手がチームを去った。とはいえ、坂口の扱いには現場からも不満の声が多かった。
当時の坂口は「もちろん、今までプレーさせてもらった感謝は球団に対して持っています。でも、必要とされていることを感じてプレーしてこその野球選手やと思うんです。このまま引退になる覚悟でチームを離れます」と強い言葉で語った。
10月1日、球団から退団が発表された。近鉄を含めバファローズの選手として過ごした13年間は濃密だった。ただ、こそで燃え尽きるつもりはなかった。「ホンマにどこもあてないですよ。ガチでね。どっか取ってくれるかな。俺」。そう話した坂口を獲得する球団が程なく現れることになる。
















