【平成球界裏面史 近鉄編40】平成24年(2012年)のころには近鉄出身でオリックスバファローズの主力といえば、誰もが坂口智隆の名前を挙げた。4年連続4度のゴールデン・グラブ賞に最多安打のタイトルも経験。シーズン前の3月には日本代表にも選ばれたほどだった。

坂口が起き上がれず場内は騒然とした(2012年5月)
坂口が起き上がれず場内は騒然とした(2012年5月)

 だが、このシーズンが坂口の野球人生を大きく変えるきっかけになるとは…。人気も実力も申し分ない。まさにチームの顔だった。シーズン前には首位打者と5年連続ゴールデン・グラブ賞、リーグ優勝と大きい目標を掲げ、全てにおいてキャリアハイを目指していた。

 坂口はレギュラーになって以来、春先には調子が上がらず、4月は打率1割台ということも珍しくなかった。それでも「なんでやろうね。理由が分かってたら何とかすんねんけどね」と言いながら、交流戦にかけてどんどん調子を上げていくタイプだった。固め打ちが得意で打ち出すと止まらない恐怖の1番打者だった。

坂口に全幅の信頼を寄せていた岡田彰布監督(2012年2月)
坂口に全幅の信頼を寄せていた岡田彰布監督(2012年2月)

 そういう事情もあり、当時の岡田彰布監督は「不調いうてもトータルしたら打つんやから俺は使うよ。1番は坂口よ。もう自由に打たすよ」と全幅の信頼を置いていた。

 だが、皮肉にも復調を目指すはずの交流戦中にアクシデントは起きた。5月17日の巨人戦(東京ドーム)だった。初回の中堅守備で坂本勇人が放った浅い飛球に、ダイビングキャッチを試みた際に右肩を人工芝で強打。そのまま起き上がれず途中退場となった。

 病院で検査を受けた結果「右肩肩鎖関節の脱臼」「右肩靱帯断裂」との診断。12年シーズンは棒に振ったと誰もが思った。

 しかし、5か月余りの懸命のリハビリの末、10月にはDHでの一軍復帰を果たすことができた。だが、以前の坂口智隆とは別人になっていた。故障の影響で以前とは同じフォームでバッティングができなくなっていたのだ。

本塁打を放った川端崇義(2012年5月)
本塁打を放った川端崇義(2012年5月)

 その後、ヤクルトに移籍して復活した際には「大きなケガをしたんだから、その状態を受け入れて、打撃をつくり直したらいいとあの時には考えられへんかったね。そうなるまでに時間がかかったね」と話していた。結局、オリックス在籍中に自分の打撃を取り戻すことはできないまま試行錯誤の時間を過ごすことになってしまった。

 平成25年(13年)は規定打席に届くことなく打率2割3分。序盤の不振は定番だったが、夏場になっても調子が上がらず、持病の腰痛も発症してしまう状態だった。97試合には出場したものの、本人としては納得できるものではなかった。

 ソフトバンクとシ烈な優勝争いを演じた平成26年(14年)も十分にチームに貢献することができなかった。外野は日本ハムから移籍してきた糸井嘉男が右翼に固定。そこに川端崇義、駿太(後藤)ら若手が割って入り坂口と併用される状態が続いた。

坂口(左)と談笑する糸井嘉男(2013年2月)
坂口(左)と談笑する糸井嘉男(2013年2月)

 14年の優勝チーム・ソフトバンクは144試合で78勝60敗6分けの勝率5割6分7厘。2位・オリックスは80勝62敗2分けの勝率5割6分3厘。勝ち数ではオリックスが上回っていながら、勝率の差で涙をのんだ。このシーズンの坂口の打率が2割3分5厘ということを考えると、万全ならどうなったか。そう思わせるシーズンだった。
 
 さらに平成27年(15年)には、坂口が選手生命の危機ともいえる試練に見舞われることになる。