【平成球界裏面史 近鉄編39】近鉄が消滅した平成16年(2004年)から4年後、平成20年(08年)になると近鉄出身のタイトルホルダーがオリックスバファローズで誕生することになった。それは最後の近鉄猛牛戦士としてヤクルトでも活躍した坂口智隆だ。

ゴールデン・グラブ賞も獲得した坂口(後列左から2人目、2009年11月)
ゴールデン・グラブ賞も獲得した坂口(後列左から2人目、2009年11月)

 平成19年(07年)に続き2年連続で「1番・中堅」で開幕スタメン。チーム最多の142試合に出場し初の規定打席到達を果たした。150安打、打率2割7分8厘という成績はレギュラーと呼ぶに十分な数字だった。

 シーズン6三塁打、13盗塁はチームトップ。さらに「僕は実は守備のほうが大好きやからね」という特技の外野守備ではゴールデングラブ賞を初受賞した。リーグ3位の7補殺を記録するなど、俊足強肩を存分に生かしプレースタイルで一気に人気選手にのしあがった。

先制タイムリーを放った坂口(2014年6月)
先制タイムリーを放った坂口(2014年6月)

 平成21年(09年)には応援団からオリジナルのヒッティングマーチを作成された。このシーズンも「1番・中堅」のレギュラーとして活躍し、7月以外は全て月間打率3割以上という安打製造機ぶりを証明してみせた。

 特に8月は月間打率3割8分6厘を記録。イチロー以来、球団史上2人目となる月間40安打という記録を打ち立てた。イチロー2世と期待された通りの実力を自ら数字で示してみせた。最終的にリーグ2位の3割1分7厘、同2位の167安打を記録。リーグトップの14補殺で2年連続でのゴールデン・グラブ賞も手中に収めた。

 オフの12月21日には阪神・淡路大震災復興15年チャリティーマッチにも出場。ブルーウエーブにゆかりのある選手らからなる「がんばろう神戸ドリームス」の一員として、当時は横浜ベイスターズ・村田修一が会長を務めた「プロ野球昭和55年会」で構成されたチームと対戦した。

村田修一とは同い年(2009年7月)
村田修一とは同い年(2009年7月)

 もちろん、舞台はグリーンスタジアム神戸(当時の名称はスカイマークスタジアム)。神戸の1番は坂口、4番は「ブルーサンダーマシン」と恐れられた強力打線時代からオリックスの主軸を務めた藤井康雄が座った。

藤井康雄(2001年9月)
藤井康雄(2001年9月)

 ゲーム内容は坂口が3安打3打点&投げては守護神役も務める〝二刀流〟の活躍で神戸の勝利。グラウンドではしゃぐ「神戸のやんちゃ坊主」の姿が印象的だった。

 平成22年(10年)は目標としていたフルイニング出場とはならなかったものの堂々の成績。2年連続打率3割、3年連続ゴールデン・グラブ賞、3年連続150安打を記録しチームの看板選手となった。

 続く平成23年(11年)は144試合フルイニング出場を果たし、175安打でパ・リーグ最多安打のタイトルを奪取。交流戦では打率4割1分2厘で交流戦首位打者、最多安打、最多得点を記録し日本生命賞を受賞した。終盤の不振で最終的に打率2割9分7厘となり3年連続の3割は逃した。それでも無失策の守備率10割で4年連続のゴールデングラブ賞に輝くなど、全盛期を迎えていたことは明らかだった。

大村(右)に手荒い祝福をするローズ(2001年9月)
大村(右)に手荒い祝福をするローズ(2001年9月)

 近鉄消滅時には2年目20歳だった若者。「大村さん、礒部さん、ローズとか競争する土俵にすら上がれてなかった」と話していた若き猛牛は、合併球団でスター選手となった。それなのに…。最高に脂の乗った状況の坂口が不運に見舞われるとは、本人も想像だにしていなかっただろう。