【平成球界裏面史 近鉄編36】近鉄バファローズが消滅した平成16年(2004年)時点では2年目の若手野手の一人だった。そこからオリックスとの球団合併を経て不動のレギュラーに成長。現役晩年には「最後の近鉄猛牛戦士」という称号を背負ったのが坂口智隆だ。

左から坂口智隆、永井充社長、梨田昌孝監督、筧裕次郎(2002年12月)
左から坂口智隆、永井充社長、梨田昌孝監督、筧裕次郎(2002年12月)

 坂口は若手時代から独特かつ個性的な打撃フォームの持ち主で、周囲から修正を勧める声も多かった。だが、当時の鈴木貴久二軍打撃コーチはそのままのフォームを容認。もともと坂口が持っているポテンシャルを生かす指導で見守ってくれた。

 指導者に恵まれた坂口は二軍で着実に結果を残した。ルーキーイヤーだった平成15年(03年)のウエスタン・リーグでは最終的に1番に固定され、85試合に出場。打率3割2厘と結果を残しパ・リーグ公式戦での出場も経験した。

 このシーズン最終戦となった10月7日の近鉄―オリックス(Yahoo!BBスタジアム)だった。「1番・中堅」でプロ初スタメン、初出場、初安打を記録。近鉄の高卒1年目野手としての一軍出場は球団史上8人目という快挙だった。

オープン戦で観客に紹介された近鉄の新入団選手、左から2人目が坂口智隆(2003年3月)
オープン戦で観客に紹介された近鉄の新入団選手、左から2人目が坂口智隆(2003年3月)

「いてまえ打線」を擁し、超攻撃的な野球を展開することが近鉄の伝統だった。キャンプのメニューも日本一、打撃練習に割く時間が長いと言われるほどだった。チームカラーというものは着実に引き継がれており、二軍が練習する藤井寺でも若手の熱気があふれていた。

「今振り返ったらどうなんやろ? という練習もあったかもしれないですよ。でも、やらされてる練習も後から身につくこともあるし、マイナスではない。あの藤井寺での時間があったからその後の自分があると思いますね。夏場なんて藤井寺は人工芝の照り返しでめちゃくちゃ暑かったしね。球友寮では夜間練習も絶対にあって、もう本当に野球漬けでしたね」

 当時の思い出として坂口が語った「打撃の師匠・鈴木コーチ」のエピソードもある。鈴木コーチは北海道出身で極度の暑がり。それはチーム関係者の間では有名な話だった。夏場は常にアンダーシャツを着用せず、地肌にそのままユニホームをまとっていた。

鈴木貴久コーチ(2004年2月)
鈴木貴久コーチ(2004年2月)

 そうするとメッシュのユニホームから直射日光が貫通し、背中一面に見事なほどに背番号型の日焼けが完成してしまう。

 坂口は「練習の後に風呂に入ると鈴木さんの背中に『72』ってくっきり入ってるんですよ。細かいことは気にしないというのか、豪快な先輩ばっかりでしたね。近鉄は」と当時を懐かしむ。

 2年目の坂口は04年も二軍では不動の1番打者として打率2割6分6厘を記録した。一軍では7試合に出場し、徐々に頭角を現す存在となっていた。

バファローズを守ろう決起集会、客を迎える礒部公一と大村(2004年9月)
バファローズを守ろう決起集会、客を迎える礒部公一と大村(2004年9月)

 ただ、そのシーズン中に球界を揺るがすオリックスと近鉄の球団合併問題が勃発する。日本プロ野球史上初のストライキも行われ、労使交渉の現場では先輩の礒部公一選手会長が奮闘していた。

 それでも2年目20歳の坂口にとっては自分ごとであり、遠い世界の話のように感じていた。「ほとんどがテレビで知ることばかりでした。『俺らどうなるんだ?』という思いでしたね。詳しいことも分からないし不安でいっぱいでした」。平成14年(02年)にドラ1で入団した近鉄が2年で消滅するとは想像もしなかったはずだ。