【平成球界裏面史 近鉄編35】近鉄バファローズが消滅したのは平成16年(2004年)。その時点でNPBの現役だった選手がどこまでプレーするかを、当時は誰も予想することはできなかった。
平成14年(02年)ドラフト1位で令和4年(22年)までNPB通算20年間に渡ってプレー。1526安打を重ねた坂口智隆がその答えとなるのだが、このバットマンの野球人生も波乱に満ちていた。
神戸国際大附高では投手として甲子園にも出場。当時、高校ナンバーワン投手として名を馳せた東北高・高井雄平の外れ1位で近鉄に入団した。このころは当然、〝最後の近鉄戦士〟という称号を背負って39歳まで現役を続けるとは思ってもみなかっただろう。
坂口は「当時はドラフト1位で指名されるなんて思ってなかった。それよりプロに入って親に恩返しできるという気持ちが先だったかな」と振り返る。
坂口は入団時の契約金8000万円を母・一枝さんにそのまま手渡した。女手一つで野球を続けさせてくれたことへのねぎらいだった。加えて、プロの世界で自分の力で稼ぐんだという覚悟も含まれていた。
近鉄入団後は投手から外野手へ転向。ただ、当初は「ある程度、予想はしていたけど、誰と競争とか以前に『なんで俺がドラ1なん?』と思うくらい、先輩たちとの実力の差にビビりましたね」と近鉄野手陣のレベルの高さに驚がくした。
それも無理はないだろう。坂口が入団する1年前の平成13年(01年)に近鉄はリーグ制覇。タフィ・ローズ、中村紀洋、礒部公一、大村直之ら〝いてまえ打線〟の迫力は高卒ルーキーには衝撃でしかなかったはずだ。
坂口はプロ入り以降、外野手としての土台作りに専念した。その後、坂口の武器となる打撃でもプロへの対応に苦慮した。
坂口の打撃フォームは特殊であり、当時の先輩たちからは「なんでその打ち方で打てんのか不思議でしゃあないわ」と首を傾げられた。前後への体重移動が大きく、極端にバットのヘッドを投手方向へ向けるフォーム。これを修正するよう周囲から数々の〝物言い〟が入ったことは事実だ。
それでも当時の鈴木貴久二軍打撃コーチは「それでええやんか」と、坂口がプロに入ってきたそのままの姿を認めてくれた。
「僕が最初にプロに入ってバッティングを教えてもらった人やし、打撃の師匠ですね。ファーストストライクは必ず振っていく。見逃し三振はNG。それだけを意識していたら、結果に関してあれやこれやと言われることはなかったですね」
灼熱の藤井寺球場でこれでもかというほどバットを振り続けた。その練習に納得いくまで鈴木コーチは付き合ってくれた。
坂口は指導者にも恵まれ二軍で着実に結果を残していった。打順は1番に固定され、最終的にウエスタン・リーグで85試合に出場。打率3割2厘と結果を残した。翌年に激動のシーズンが訪れることも知らずに。
















