【平成球界裏面史 近鉄編34】平成27年(2015年)のNPBに近鉄のアイコン的存在だった中村紀洋の姿はなかった。球団消滅から11年が経過した同年、シーズン開始時点で近鉄出身のNPB選手は合計7人という状態だった。
合併球団のオリックス・バファローズに在籍していたのが坂口智隆、近藤一樹。楽天イーグルスに牧田明久、横山徹也。そのほかMLBで活躍していた岩隈久志(マリナーズ)、香月良太(巨人)、坂克彦(阪神)という面々だった。
合併当時、無名の若手からNPBで頭角を現していたのは坂口だろう。神戸国際大付高から平成13年(02年)ドラフト1位で近鉄に入団。高卒1年目の03年にはウエスタン・リーグで打率3割を記録し、10月には一軍デビューを果たした。プロ初安打もマークしていた。
ただ、近鉄の歴史に翻ろうされ在籍中のプレーは2年のみ。分配ドラフト時は2年目以内の選手ということで、自動的にオリックスの一員となった。
その後はプロ6年目の08年からレギュラー奪取。同年から4連続でゴールデングラブ賞を受賞(~11年)した。11年には全144試合にフル出場し、175安打で最多安打のタイトルを獲得するまでに成長。12年3月には侍ジャパンにも招集された。
オリックス・ブルーウェーブからメジャー移籍した先輩・田口壮(カージナルス)に自ら掛け合い06年から弟子入り。自主トレを合同で行うようになった。「自分の口からそんなこと言うのおこがましいけどね。もし、そうなれたらすごいこと」とMLBを意識するまでの存在になっていた。
ところが、12年5月17日の交流戦、巨人戦(東京ドーム)でのプレー中に右肩肩鎖関節を脱臼。患部の靱帯も断裂という大ケガを負い長期離脱を余儀なくされた。そこからは故障の影響もあり成績は下降線。年齢も32歳となっていた15年には36試合の出場にとどまり、オリックスを退団する流れとなる。
坂口には合併後の新生オリックスをけん引してきた自負があった。若手にも慕われムードメーカーであったため、当初はオリックスバファローズを離脱するとはみられてはいなかった。ただ、当時の瀬戸山隆三球団本部長が「坂口を『功労者』とは認識しているが、それだけでお金を払う世界ではない。シビアに行くところは行かないと」と話したように球団フロントとの認識の違いは明らかだった。
当時の坂口は親しい関係者に「プロ13年、僕にゆかりのある神戸がルーツのオリックスで引退してもいいかな」とジョーク交じりに話したこともあった。だが、「12年のケガをする前に体は戻らないかもしれないけど、違ったアプローチで自分の形ができてきたことも事実」と復調も感じていた。
15年オフ、坂口はヤクルトに必要とされ移籍することとなった。これで合併球団に残った近鉄出身選手は近藤一樹のみ。このシーズン、オリックス・谷佳知、平野恵一が現役を引退したため合併球団に残っているブルーウエーブの選手はゼロとなった。
















