【平成球界裏面史 近鉄編37】平成16年(2004年)、坂口智隆はプロ2年目の近鉄野手としてウエスタン・リーグを主戦場にしていた。

背番号52の坂口(2008年1月)
背番号52の坂口(2008年1月)

 04年シーズン途中の6月13日にはオリックスとの球団合併のニュースが世間を駆け巡った。当時の近鉄選手会長だった礒部公一が「あの日から、野球せなあかんのが最優先とは分かっているのに、全く集中できない日々が続いた」というように、ペナントレースを戦いながら、労使交渉や署名活動など合併反対運動に奔走する日が続いた。

 だが、その当時の坂口は20歳。「ヤクルトで現役だったころは〝最後の近鉄猛牛戦士〟とファンの方々から呼んでいただいて誇りを感じていたのも事実ですよ。それでも04年の当時の僕なんていうのは『ホンマに俺らどうなるんだ?』という思いしかなかったですよ。まだ高校を出て2年目だし、詳しいことなんて何も分からず不安でいっぱいでしたから」と振り返る。

合併反対を訴えるファン(2004年6月)
合併反対を訴えるファン(2004年6月)

 近鉄の先輩たち、プロ野球選手会の懸命な合併阻止への動きも報われなかった。東北楽天イーグルスの新規参入が認められるということは、すなわち近鉄の消滅が決まるということだった。合併するオリックスとの分配ドラフトで2年目の坂口は自動的にオリックスの一員となった。

引っ越しする礒部(2004年8月)
引っ越しする礒部(2004年8月)

「本当に若い選手はバタバタだったと思います。マネジャーから移籍が伝えられて、あっという間に引っ越しです。オリックスに行く僕らはすぐにYahoo! BBスタジアム(現ほっと神戸)で合同練習でしたね」

 坂口は近鉄の球友寮で過ごした仲間と余韻をかみ締める間もなく、わずか2年間で新天地となる「オリックス・バファローズ」の登録選手となった。

 オリックスに移籍したことで変わったのは環境と背番号だ。寮は大阪・藤井寺から神戸市内に、背番号は近鉄時代の「27」から「52」に変わった。この事実に坂口は不思議な縁を感じていた。

青濤館(2007年1月)
青濤館(2007年1月)

 神戸国際大附高出身の坂口にとっては、青濤館があった場所は自分のテリトリーと言ってもいいエリア。背番号は神戸が産んだ世界のスーパースター・イチローが背負った「51」に1を足した番号となった。右投げ左打の外野手という共通点もあった。

 坂口がその後、一軍で活躍するようになり打席に入る前には右翼席のファンから「グッチ~」と掛け声が起こるようになった。これはイチローがオリックス時代に浴びた「イチロ~」のコールを明らかにオマージュしている。

 事実、オリックスバファローズに新加入直後の坂口には〝イチロー二世〟になってほしいという期待が込められていた。そして、移籍1年目の05年に春季沖縄・宮古島キャンプで本物のイチローと遭遇することになった。

 合併球団の指揮をとった仰木彬監督に招かれ第2クール初日の2月6日から、マリナーズ・イチローが現地を訪問。前年04年にシーズン262安打のMLB記録を樹立した世界一のバットマンの全盛期だ。神戸にゆかりのある坂口はグリーンスタジアムでイチローに声援を送った世代。仰木マジックの手のひらの上で、坂口が夢の時間を過ごすことになる。