【平成球界裏面史 近鉄編23】平成16年(2004年)以降の中村紀洋の野球人生は波乱に満ちていた。これは平成14年(02年)にFAでのメジャー挑戦を断念し、近鉄残留という選択肢を選んだところから始まっている。

楽天への入団会見を行った中村紀洋(2008年12月)
楽天への入団会見を行った中村紀洋(2008年12月)

 近鉄消滅直後の05年、ポスティングでドジャースと契約するもシーズンの大半をマイナーで過ごし1年で帰国。06年はオリックスで日本球界復帰したもののオフには自由契約となる。07年は2月の春季キャンプ中まで所属球団が決まらず、テスト入団で育成選手として中日に加入するという道を歩んだ。

 その07年は育成から支配下登録を勝ち取り開幕スタメン。正三塁手として活躍し日本シリーズではMVPにまで登り詰めた。続く08年も落合竜の三塁レギュラーに君臨。竜党からも一定の支持を得ていた。

上原から勝ち越しソロを放ち、拳を突き上げる中村紀洋(2008年4月)
上原から勝ち越しソロを放ち、拳を突き上げる中村紀洋(2008年4月)

 このまま名古屋に骨をうずめよう。そう思う中村もいた。ただ、落合監督から「自由にしていいんだ。権利なんだから。ウチの三塁には森野がいるしな。ウチに残るなら森野と競ってもらう」という言葉を受け、客観的評価に興味を持つ自分を思い出した。

 中村は11月に入り、中日残留の道も残しながら自身2度目のFA権を行使。すると野村克也監督率いる楽天が獲得に名乗りを挙げた。同25日に最初の交渉を行い29日には入団決定。推定年俸1億500万円プラス出来高の2年契約で、近鉄消滅により誕生した東北楽天の一員となった。この契約は楽天にとって初のFA補強となった。

 中村が中日を去った背景には三塁への強いこだわりもあった。中日は三塁・森野というビジョンを持ちチーム作りを推進。オフに退団したタイロン・ウッズの後釜に一塁予定のトニ・ブランコを補強するなど、中村に頼らない次シーズンの構想を固めつつあった。

三井ゴールデン・グラブ賞トロフィーを贈られた中日・井端弘和、中村紀洋、荒木雅博(2008年12月)
三井ゴールデン・グラブ賞トロフィーを贈られた中日・井端弘和、中村紀洋、荒木雅博(2008年12月)

 若返りを図るチームに09年で36歳になる自分がそぐわないのではないか。そういう気持ちにならなかったといえば嘘になる。

 中村は通算7度のゴールデン・グラブ賞を三塁手として獲得。こだわりは人一倍あった。

「楽天は三塁手のレギュラーとして迎え入れてくれるということだった。ここで勝負しようと思った」

 加えて中村には01年の忘れ物に関する記憶も残っていた。このシーズンはキャリアハイの成績を残し近鉄でリーグ優勝を果たした。ただ、日本シリーズでは若松勉監督率いるヤクルトの前に1勝4敗で惨敗し日本一を逃していた。

「監督は若松さんに代わってはいたけど、キャッチャーは古田さん。野村監督のID野球の申し子と言っていい。野村監督がどういう野球をやるのかにも興味もあった。三塁にこだわりたいという部分と、野村ID野球を学びたいという気持ちが楽天に来た理由」

 意気込んで乗り込んだ東北の地ではあった。だが、移籍1年目となった09年は思い通りにはいかなかった。持病の腰痛が悪化したこともあり極度の不振。4月5日の日本ハム戦(札幌ドーム)で移籍後初本塁打を記録したが失速した。8月前半に登録抹消され、そのままシーズン終了。打率2割2分1厘、2本塁打、26打点は周囲の期待を大きく裏切った。

豪快な三振をした中村紀洋(2009年4月)
豪快な三振をした中村紀洋(2009年4月)