【鈴木平 超二流~花の咲きどき~(32)】闘将と呼ばれた星野仙一監督率いる中日ドラゴンズには2000年、01年の2年間、在籍させていただきました。
1年目は21試合に登板させてもらい1勝1敗、防御率3・86という成績でした。自分ではまだまだ投げられると思ってはいましたが、今思えばもうそこまで余力は残っていなかったのかなとも思います。
2年間という短い期間でしたが、中日では同級生でミスタードラゴンズと称された現監督の立浪和義とも一緒にプレーをすることができました。
世間では野球に対して厳しく、怖い印象があるんでしょうかね。
僕は何度か飲みにいく機会にも恵まれましたけど、同級生ですし本当に普通に面白くていいやつだなという印象しかないですね。
ただ正直、あの名古屋という土地においては立浪和義が別格の扱いを受けているなというのは事実でした。球団外も含めて、周囲の人間からの扱いが別格だというのは、これは本当だと思います。
そりゃPL学園を出て1年目からショートのレギュラーで22年間、ドラゴンズ一筋でチームに貢献してきた選手ですから。2480安打を重ね、487二塁打は現在でもNPB記録でしょ。野球殿堂入りもすでに果たしていますし、そりゃそうなりますよね。
遠征先のホテルでも立浪はスイートルームだったって話ですもんね。他の選手たちももう「それはもう立浪さんだから何も異論はございません」という雰囲気でおかしくなかったと思いますよ。
そう思えば、もう一人別格がいました。今中慎二ですよ。めちゃくちゃ面白い人間でね、星野監督にもかわいがられていましたね。
1993年には17勝で最多勝、沢村賞と大活躍でしたもんね。そのシーズンは249イニングも投げてますし、その後もフル回転でドラゴンズを支えた左腕ですよ。
ドラゴンズのために潰れたと表現しても間違いではない投手なわけですからね。自分が納得するまで現役でチームに残っていいと、星野監督からお墨つきをもらっていたはずです。
ちょうど僕が在籍したころには左肩痛で二軍にいることが長かったですね。登板する時なんて体中全部テーピング貼って投げていましたからね。どうしたんというくらいに。それだけ満身創痍だったんですよ。
あのころの中日二軍は重たいメンバーが揃っていました。武田一浩さん、川崎憲次郎、小池秀郎さん、佐野慈紀さん、紀藤真琴さんなど、タイトル経験者や実績がある投手が多くて二軍投手コーチが気を使って大変だったと思います。
いやほんとにクセのある選手ばっかりでしたよ。そんな中、僕は01年は故障で一軍登板はゼロ。もう、このシーズン限りで野球界から退こうと思っていたんです。
オリックスに移籍した95年に結婚をして、96年に第1子を授かり5年後。まだ、子供たちは小さかったですね。ここでプロ野球選手としての区切りをつけるつもりでしたが、一本の電話が運命を変えてくれました。












