【鈴木平 超二流~花の咲きどき~(29)】1995、96年の連覇を経て黄金期を迎えるかと思いきや、その後のオリックスは低迷していく流れをたどっていくことになります。

 ベテラン選手が出ていったり、チームとしては世代交代を狙った時期でもあったんでしょう。

 退団した山田久志投手コーチの後には、仰木監督を近鉄時代も支えた神部年男さんが入団されました。前年まで近鉄で投手コーチをされていましたが、監督の要望に応えた形です。

 それまでのオリックス投手陣の雰囲気は、僕がこちらで書かせていただいた通り本当に自由でした。ベンチには山田さん、ブルペンには山口高志さんがいて、特にブルペンはピクニック状態だと表現したはずです。

 ところがこのシーズンから山口さんもベンチに入るようになり、神部さんがブルペンを担当することになりました。これはもう雰囲気がガラッと変わっちゃって、そんなにも自由ではなくなりました。

 これは別に神部さんがいいとか悪いとかではなく、一般論として新しいコーチが来た時というのはそんなものなんですよ。今までと違うものを持ち込もうとするのは新任コーチとすれば当然ですしね。

 自身が見いだした若手選手を使うということも普通に行われるわけですが、それまでの枠を奪われる選手もいれば、何となくぎこちなくなるものなんです。
 2000年に仰木監督になって初めてのBクラスを経験。01年も4位となり仰木監督が退任されました。この時期は球団フロントも新人選手の契約金ゼロ円枠を作るなど、球界でも物議を醸すことがありましたよね。

 そんなチームの過渡期に僕自身の人生にも変化が起こります。連覇した後も僕は右肩の故障などもありつつも、3年連続で40試合以上の登板をさせていただきました。

 そのころのオリックスは高年俸の選手を放出する傾向にあって、僕自身も当時の球団代表と契約のことでゴタゴタがあってという状態でした。
 そんな折にちょうどヤクルトから「戻ってこい」とお誘いをいただいたりということもありました。

 95、96年のいい時を知っているからこそ嫌になったというのもあったんでしょうね。チームも僕も成績的にはそんなに悪くはなかったですが、中日へのトレード移籍が決まりました。

 ドラゴンズに行った時に球団代表に最初に言われたことを覚えていますよ。「ウチだったら億いっているよ」と。新聞報道などで振り返ればわかりますが、ヤクルトから移籍した95年の推定年俸660万円。そこから96年は3500万円、97年は8000万円という形で一気に昇給していきました。

 その後も3年連続で40試合の登板を果たしましたが、ほぼ横ばいどころか落ちているような状況でした。球団の経営状況や時代も違いますが、これも勉強になりました