【鈴木平 超二流~花の咲きどき~(23)】ヤクルト時代の7シーズンで合計29試合の登板だった僕が、オリックス移籍1年目の1995年にはいきなり50試合の登板です。すべてリリーフで59イニング、防御率1・83という成績でした。
仰木彬監督や山田久志投手コーチらオリックス首脳陣に「ボールに力があるんだから、細かいことを考えずに『バーン』と行け」と言われた通りにして、そのまま行っちゃった感じです。
一体、何を変えたんだと。どうしてそんなによくなったのかと、よく聞かれたんですけど、本当に何も変えてないですし、よくなっていたわけでもありません。
ただ、データとしてよくなったのはストライク率だけ。それも大ざっぱにストライクゾーンに投げられていただけなんです。絶対にここ、ではなくて「そのへん」でいいんです。いわゆるストライクゾーンに通すという感覚です。
僕は今、静岡県の磐田南高校の野球部を指導させていただいています。ここで最も大事にしてることは何かというと、どれだけ投手を気持ちよくマウンドに送り出してあげるかということ、ただそれだけを意識しています。
オリックスに移籍した95年シーズンは山田投手コーチ、山口高志投手コーチはもちろん、仰木監督も中西太ヘッドコーチも、ものすごく気持ちよく僕をマウンドに上げてくれたんです。
その中でも実際、登板する時にマウンドで待っていてくれる、あるいは交代を告げにくる山田投手コーチ。この存在は僕にとっては日本一なんじゃないかって今でも思っています。
時々、打たれるときもあるじゃないですか。そういうときに山田さんがマウンドに歩み寄ってきて、僕の腰のあたりに手を当てて言うんですよ。
「悪かったなあ。もう一個前で出してやれればよかったな。これだと勝負するしか選択肢がなかったもんな」って。
通算284勝もしている阪急の大エースですよ。そんな人が打たれている投手に、いきなり「悪いなあ」って来られると、どうですか。打たれてるのは自分だし。
山田さんはわれわれリリーフピッチャーをものすごく気にかけてくれました。移動日の練習は休みだし、移動時刻も基本的には自由です。僕は東京の赤坂にヤクルト時代からお世話になっていた先生がいたので、関東方面を通る時には毎回、治療に行かせてもらっていました。
ただ、こんなこともありましたね。95年のリーグ優勝が決まった9月19日の西武戦(西武球場)でのことです。先発は星野伸之さんで3点リードの6回一死、走者ありの場面で僕の出番となりました。
そこまでの時点では僕は49試合に登板し防御率1点台。試合前に山田さんと相談して、50試合で1点台の方が見栄えがいいので、1イニングくらいでお願いしますと伝えてあったんですね。
僕はそのつもりで登板していったのですが、思い通りにはなりませんでした。












