【鈴木平 超二流~花の咲きどき~(20)】そこに投げなければいけない。さらには、そこに投げる根拠が何なのかを理解していなければならない。

 プロ3年目の1990年から94年までの5年間は、野球脳が野村ID野球にどっぷり漬かっていました。

 これを完璧に理解し、自分のものにできればよかったのですが、当時の自分はそのレベルにはありませんでした。

 それが95年、オリックスに移籍してからは「細かいことは気にしないでいいから。お前はボールに力があるんだから『バーン』といけよ」となって、いやいや違うんじゃないの? 本当にそれでいいの? と葛藤する自分がいました。

 でも、実際に周囲を見渡してみるとオリックスの面々は皆、堂々と自分のスタイルをまっとうしているわけです。
 だって、星野伸之さんは130キロくらいの遅い直球を駆使し、当たり前のように打者と勝負しています。

 95年4月21日のロッテ戦で1試合19奪三振の日本新記録を樹立した野田浩司さんはフォークボールばっかり投げまくってましたしね。長谷川滋利さんはいつも、いつもフルカウントにする。大ベテランの佐藤義則さんに至っては一度、登板すると10日間登録抹消するから、次の日から練習にすら来ないという状況です。

 何というのか。みんながそれぞれにスタイルを持っていて。それはしっかり結果を残しているからなんですが、持って生まれた個性を存分に生かして自分らしくプレーしているように見えました。

 佐藤義さんは95年の8月26日の近鉄戦(藤井寺)で当時NPB史上最年長の40歳でのノーヒットノーランを達成しました。ものすごい快挙なんですが、その翌日からがもっとすごかったんです。

 そこから10日間くらい球場にすら来なかったんですからね。そうするとさすがに、チーム内がざわついてくると思いきや、そんなわけでもなく「ヨシさんハワイでも行ったんちゃうか」とみんなで笑ってるんですよね。

 当時のオリックスというチームはなんかね、そういうのが通ってしまう空気がありました。キャンプ中の雰囲気も自由で、オープン戦に差しかかるころにも衝撃の光景を目にしました。

 春季キャンプ中の2月20日くらいの段階ですかね。今は早い段階から練習試合などで対外試合をどんどん実施しますが、当時はそのころからオープン戦という感じでした。

 オリックスの場合は宮古島でキャンプをしていたので、オープン戦のために沖縄本島まで遠征することになります。普通は早い段階でのオープン戦の登板はアピールが必要な若手が中心になるもの。首脳陣が登板予定を組んで投手コーチから選手に通達されるものだと想像していました。

 でも、当時のオリックスは違うんですよ。山田久志投手コーチが投手陣を集めて「那覇、行きたい人~」と挙手を促すんです。そうすると超ベテランの佐藤義さんとか、エースの星野さんが真っ先に手を挙げるんですよ。口には出しませんが「飲みに行きたいだけじゃん!」と心の中でツッコミを入れていました。